2017年9月29日金曜日

はじめに


アルファポリス第十回エッセイブログコンテスト特別賞をいただきました。

応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。 





 14年前にステージ3Cという末期に近い進行性の乳がんになりました。

 当時の5年生存率は50%、10年生存率は20%という厳しいものでした。(注14年前のアメリカの生存率です。今では医療も発達してとても高いものになっています)

 在日基地では治療ができずにハワイでの闘病生活となりました。美しいハワイで辛い治療に苦しみ悩み泣きわめいたこともありました。

 記録を残したいと思い当時ノートを病室に持ち込んでは克明に記録しました。中には何を書いているかわからないページもあり、自分のことながら乳がんとの戦いの厳しさを感じました。

 私が今ここにいられるのはもちろん治療のおかげでもありますが、夫と息子に支えられたからだと思っています。家族に心から感謝を捧げます。





 乳がんが増えています。

 早期発見の大切さを伝えたい。それから癌になってしまっても、絶望ばかりじゃなく、希望もあるということを伝えたくエッセイに残すことにしました。

 エッセイ形式で書いたものですが、ブログにまとめたので、順番は最初からになっています。もちろん全部実話ですが、名前はイニシャルに変えてあります。

 それから会話はほぼ英語なのですが、日本語に変えて書いてあります。

 かなり壮絶で重い内容になっていますが、乳がん治療は素晴らしく進歩しています。これは14年前の記録なので今とはかなり違った治療になっていると思います。

最近「がんは治療するな」とか「これだけで治る」といういわゆるとんでも本が多く出版されています。残念ながら(これだけで治る)薬はまだ発明されていません。闘病中の方はどうか恐れずに標準治療をして欲しいと思います。


治療は苦しかったですが、生きています。


生きている素晴らしさを毎日噛みしめています。

悲しい思いをする人が一人でも減りますようにと思いを込めて……。


14年前のハワイから。




悪夢のはじまり

2003年3月

 左胸の中に大きな塊があるのは気がついていた。

 奥の方からズンズンと突き上げるような鈍痛もあった。

 当時癌は痛くないと一般に言われていたので、例えば乳房の中の乳管が母乳で詰まる乳腺症のようなものだと思っていた。乳腺炎にかかったことがあり、その時の感触と痛みにそっくりだった。 なので「またか」と軽く考えていた。 




 

 当時、私とアメリカ空軍人の夫と息子は在日基地の中で暮らしていた。

 アイダホ州から引っ越してきて1年と少し。息子はまだ8歳で基地内の小学校に通っていた。私はその学校の通訳や書類整理などのボランティアを毎日のようにしていた。そして軍人でこの基地に勤める夫は出張のために数ヶ月家を開けていた。

 
 痛みはいつまでたっても収まらず、だんだん心配になってきた私は重い腰を上げてY基地の中の病院へ検査のために行ってみた。

ここのトップクラスの女医は難しい顔をしながら胸の触診をしていた。

 「乳がんにしては大きすぎるわ、乳がんではないと思う。大きな脂肪の塊ね、大きすぎる」と良った。

 「違うとは思うけど念の為にマンモグラフィーは受けてね」と言われた。マンモグラフィーとはアクリル版で胸を可能な限り平たくつぶしてレントゲン撮影をすることだ。

「良かった、癌じゃないんだ」とすっかり安心してしまい、モンモグラフィー検査を受けに行ったのは日にちが合わなかったり、機械が壊れていたりしていたため、うんと後になってしまった。






 

 マンモグラフィーの予約をボランティアをするためにキャンセルしたこともあった。学校の遠足で通訳をして欲しいという理由で。

 今考えるとバカなことをしたものだが、この時は医者の「キャンサーではないと思う」という言葉を信じきっていたためだ。

 約4ヶ月後、夫が帰ってきたので一緒に病院へ行きマンモグラフィーをすることになった。検査室でアクリル板でギュッと胸を潰されてレントン写真を撮る。これが痛い検査のために行かない人も多いと聞いた。

フィルムを見た技師の顔色が変わった。


「念の為にもう数枚とりますね、念のためだから」と繰り返す。
 
「なにか、悪いものなんでしょうか?」

「それは今からドクターが見て判断しますから、私は何も言えないんです」技師は私を見ないようにしているようだった。

 それからレントゲン技師はすぐにドクターを呼びに行った。フィルムを見た医者は

 「乳癌の疑いがあります」と、はっきりと言った。

 「もっと詳しい検査をしなければわかりませんが、高い確率だと思います」

 夫の顔色がみるみる真っ青になる。私は正直、信じられない気持ちのほうが強かった。健康で元気だ。体力もある。

「すぐに針の生体検査(バイオプシー)をしにハワイに飛んでもらいます、明日の金曜日にでも」と言った。検査のためにハワイにある陸軍T病院へすぐに行けという。

 Y基地には当時オンコロジーと呼ばれる腫瘍専門医がいなかったためだ。明日行けとはあまりにも急だ。

「そんなに急に行かなくてはいけないんでしょうか?」と聞くと一刻も早くという。そして私の顔を見て

 「残念です」と言った。 

 



 息子はまだ小学校2年生で、小学1年生の途中でアイダホ州から転校してきて、やっと慣れたところだった。白人しかいなかったアイダホと比べ日本人とのハーフが多いこの学校は息子にとっても嬉しかったと思う。やっと友だちもできてきたところだった。

 そして日曜日には誕生日パーティーを予定していた。金曜日に行けという医者にせめて日曜日のパーティーをさせて欲しいと月曜日のフライトになった。

 辛い数日だったがなるべく顔に出さないようにしていた。というよりも実感がわかなかったのだ。

 乳がん…? 私が?

 すごく元気で毎日のように学校のボランティアをして走り回っていた日々。何かの間違いではないのだろうか?

 夫のほうが落ち込んでいた。目を真っ赤にしてたが、私は最初本当に信じられなかったし、なんだか現実の話ではないような気がしていた。
 
 誕生日パーティーの前日、風船を膨らませ、飾り付けをした。当時子どもたちに流行っていて、毎日見ていた海のスポンジのキャラクタースポンジボブという漫画のピニャータ(中にキャンディーが入っているもの、叩いて壊す遊び)を作った。

 ダンボールに黄色の紙を貼っていく。本の表紙を見ながら顔を書いていく。

 飾り付けをし、プレゼントを包みながら

 「来年はどうなるのだろうか?もう誕生日パーティーをやってあげられないのだろうか?」そう思うと、急に悲しみに胸が締め付けられ、ピニャータのスポンジボブの顔の上に涙がポタポタと落ちた。

 いつも陽気な黄色の漫画のキャラクターも泣いているように見えた。







 パーティーにはたくさんのお友達が来てくれて楽しい一日を過ごせた。この日はおもいっきり明るく振る舞った。いつもと同じに、おもしろいママのままで。
急に学校を休まされハワイに行くと言われた息子は少し泣いた。

「どうして?どうしてハワイに行くの?」

「大切なことを調べに行くの、ここではできないことなの。でもすぐに帰れるかもしれない、まだ何もわからないの」と説明する。
 
 「乳がんではなかったと帰ってくる人もたくさんいますよ」というドクターの一言だけが希望だった。

 3日。月曜日の夜のユナイテッドの便に乗るためにお昼のバスに乗り込む。Y基地から成田まで出ている直通バスだ。夜ほとんど眠れなかったので2時間ほどのドライブの間ウトウトする。 

 成田空港での待ち時間は長かったがあえて本や雑誌も数冊しか買わなかった。 洋服も1週間分パックしただけだった。

 「きっと何かの間違いだから、日本にすぐ帰るなら荷物になるから。すぐにトンボ返りするに決まってる」そう信じたかったからだった。



 けれど、その日以来日本に住むことはもうなかった。





針をさして生体検査をする。


 時差があるので3日の午前中にハワイに着き、その足でT病院へ行く。ほとんど寝ていないのでふらふらだった。 

 日本時間ではもうすぐ4日の朝4時だったが、ハワイ時間では3日の朝9時だった。アラモレンタカーで車を借りてすぐに山の上にある病院を目指す。

 簡単な検査をしてからドクターと少し話をし、バイオプシー検査という長い針を刺す検査をすることになった。

 しこりはかなり大きく、すでに痛みがある。その痛みの真ん中に長い針を指すのだ。 ぶすっと刺された瞬間

 「うわあ~~痛い!!」と大声が出た。激痛だ 信じられない痛みなのに更にぐっぐっと奥へと針を差し込んでいく。 

 痛い痛い痛い。涙が頬を伝った。

 まるで拷問だ。

 検査でさえこんなに痛いのかと凹む。たった一本針を刺しただけで、と。

 刺されたところがズキズキ痛む。ランチ時間に病院に入っているロビンフッドというファーストフード店でミートボールサンドイッチを注文した。気持ち悪くなり2口ほどしか食べられなかった。










 外に出ると真っ青な空に椰子の木が揺れている。 

 3月の日本は寒かったので着過ぎで暑い。ハワイ気候は熱くなく寒くなく、いつも風が吹いている。頬に当たる風が気持ちよかった。

 山の上なので目が痛いほどの青い海が見える。 こんなに綺麗な場所でこんなつらい体験をするなんてと暗い気持ちになる。

 夕方オハナワイキキビレッジホテルにチェックインする。こじんまりした綺麗なホテルだった。テレビに有料でゲームがついていたので息子はそれで古いゲームをする。

 誕生日の日に親の都合で連れて来てしまった。

「ハワイに行きたくない、学校も休んで、どうして?」と沈んでいた。

 夜はD&B というレストラン付きの巨大ゲームセンターのようなところで食事をした。 ディナーにゲーム券がついていて、2階で遊べるようになっているところだ。

 食事もおいしく、色々なゲームがあり楽しかった。カジノのような雰囲気所だが、家族で楽しめる場所だ。

「わあ、おいしい」と息子が笑顔になる。こんな顔をずっと見ていたいと思った。
まだ何もわからないのだから、うんと楽しもうよと夫と話をする。

「きっとなんでもないよね、帰れるよね」と笑った。

 明日、なんでもなくて日本へ帰れますようにと願いながら、いつものように楽しく3人で食事をした。

 そして、その希望は叶えられなかった。




告知


 翌朝 左胸は一面真っ青に内出血していた。

 まだズキズキと痛む。もしも癌だったらこんな真ん中に針を刺して広がったりしないんだろうか?と心配になる。 

 検査結果を聞くのは午後だった。名前を呼ばれて、息子も一緒に病室へ連れて行こうとした。するとナースはちょっと困った顔になり

 「息子さんはここで待ってたほうが良いわ」と言った。 

 夫の顔色が変わった。この一言で、もう乳がんが決定したようなものだ。

 長い廊下に緑色で進路のテープが貼ってあった。

 まるで死刑台への道標のようだ。迎えに来た看護婦は死神に見える。

 トボトボと後ろをついて歩きながら、嫌な空気の部屋に入っていく。





 

 「残念ですが、乳がんです。3箇所あります。 一番大きい物は4センチを超えています。リンパ腺にも転移している可能性があります」と言われた。

 胸の塊は大きな脂肪ではなく、大きな癌だったのだ。

 あまりのショックで頭が真っ白になり、半分以上何を言っているのか聞き取れなかった。 実際に知らない単語もあった。

キモセラピーもします。と言われなんだろうと思ったら抗癌剤の化学治療の事だった。

乳房を取る手術をする。

形成手術はできる。

抗癌剤をする。

放射線治療をする。

 おおまかに覚えているのはこれくらいで、いろいろ説明をしていたが、ぼんやりと何を言っているんだろうか?と考えていた。

 この時のことは、あまり良く覚えていない。頭のなかで(乳がん)という言葉がグルグル回っていた。

「やっぱりそうだった。そうじゃないと信じたかったのに、ねえどうしよう、これからどうしたらいいの」と廊下で号泣した。



 
 夫も私も泣いたが、待合室に戻る前に涙を拭いた。

「長いよ!ママもダッドも一緒に行っちゃって!」とふくれる息子に

「ごめん、ごめん。じゃあこれからどこか行こうか? 水族館好きでしょう?」

「わ~やった~!」

 ゲーム機をぱたんと閉じて、椅子からぴょんと飛び降りた。床に足さえついていないのだ。まだこんなに小さいのだ。

 まだ何も知らない息子をワイキキの小さい水族館に連れて行った。

 喜ぶ息子の顔を見て涙がでる。

 まだ小さい、もみじのような手を握って涙がでる。息子の手はまだこんなに小さいんだ。 

 かわいい子供を残して死ねないと思う。一日中助かるのかどうかばかり考えていた。
すごく元気で具合も悪くないのに、そんな恐ろしい病気にかかっているとは。

 乳がんが治ったら同じ病気で苦しんでいる人のために何かをしたいと思った。
絶望の淵からでも人は立ち直れるのだと信じたかった。

 告知の日、この時が一番つらく苦しい日だと思っていた。

 でもそれはまだ始まりにすぎなかったのだ。




希望をくれた放射線医 大人になった息子が見たい!!


 翌日の予約の時に専属の看護師に生きられる確率のことを聞いた。

 「一般的にだけど、もしもステージ3になっているなら、そしてリンパ腺に転移しているなら、5年間の生存率は60%位ね」と言われた。(注 いまはもっと高いです)

 思っていたよりも低い数字が凄くショックで頭がぐらっとした。もっと高いと思っていたので60という数字がグルグル頭のなかで回った。

 5年後に100人のうち40人は亡くなってしまうのか、と絶望した。 

 このあと病理検査でもっと低い生存率になるなんて、この時は考えもしなかった。




 抗癌剤もつらそうだ。3週間に1回の治療を4回以上。 手術の直後から始められないそうなので、治療には全部で6ヶ月はかかるそうだ。

 6ヶ月。ここで治療しなければいけないのなら、これからのことを考えなければいけなかった。

 私だけが1人残るのか、職場を変えてもらい、家族で引っ越しするのかを決めなくてはいけない。どちらにしても息子に説明しなければいけない。

 3日にハワイに来て以来、泣いていない日はなかった。


▲ ▲ ▲

 
 翌日、放射線科のドクターSに会った。

 とても優しく面白い年配の女性だった。目の前で泣いていた私に、治療の話よりも今までの患者の話をしてくれた。

「腫瘍が10センチもあったのよ、10センチよ!75歳の女性よ。リンパ腺にもすごく転移していたの。その人はもう死ぬって言ってたのよ、でもね、なーんと7年前よ。今でもピンピンしてるわ」とワハハと笑う。

 「だからね、誰にもわからないのよ。ガンってそういう病気よ。え?こんな悪いステージの人が?という人が長生きしたりするんだから!」

 その後のステージの説明と放射線治療の説明の後に

 「私は……死ぬのですか?」と思わず聞いた時に

 Yes!と大きい声で言ったので驚いて顔を上げた。

 「でもね、99歳位でよ。孫にたくさん囲まれてよ。その頃私はとっくにあっちの世界に行ってるから、待ってるわ」と言ってガハハと笑う。




 その瞬間どっと涙があふれた。 こんなに嬉しい言葉を聞いたことはなかった。

アメリカの医者は「だいじょうぶ」とか「生きられる」と絶対に言わない。裁判の国だからだ。(大丈夫)でなかった場合訴えられるからだ。

でもこの医者は「99歳位で孫に囲まれてからにしなさい」と言ってくれた。そして


「外で待ってるあの子!あんなにかわいい子供を残して死ねないでしょう?そうだ、孫を抱っこするのをこれからの目標にしなさい」と言っくれた。 

 一生忘れられない言葉だ。希望が生まれた瞬間だった。

 絶対に生き延びたい。

 昨日も今日も泣いていた息子。まだ小さいこの子を置いて行くなんてできない。



中学生になった息子が見たい。

高校生になった息子が見たい。

大人になった息子が見たい。



 成長の過程が見られないかもと思った瞬間が一番の恐怖だった。親としてこれほど辛いことはない。

ドクターSと出会えたことで気持ちが大きく変わった。きっと大丈夫だと自分に言い聞かせていた。




抗がん剤の前にウイッグををオーダーした


この日は形成外科医のドクターHと会った。 


  乳房の再建手術2つの方法があり人工物のインプラントを入れる同時再建、お腹の脂肪と筋肉を使う自家再建だそうだ。

 お腹の脂肪をとってもらえるのは嬉しいけれど、長い時間がかかるそうだ。

 傷が治ってからから乳房の皮膚を切り取って乳首を作り、その上にはタトゥーで色を入れるという。 そうすると約1年以上かかるらしい。

 正直まだ再建のことなど考えられない。

 それでもこの病院は外科医、腫瘍科医、放射線医、整形外科医の4人が1人の患者につく。ミーティングも4人で行うそうだ。なので、整形外科医のアポも度々ある。 

 最近の抗癌剤では吐き気は抑えられるそうだが髪はほとんどの人が抜けるという。

 抜け始める前にウイッグをオーダーすることになった。



 
 アラモアナショッピングセンターに行った。ウイッグも扱っているヘヤーサロンでいろいろ被って試してみる。 

 明るい色に染めていたので黒髪のものは違和感があった。栗色のバング付きのものに決めた。いいものが見つかってハワイに来てはじめて嬉しくなった。

 ドクターSとの話でとても楽になった。前向きに前向きに考えよう、きっとだいじょうぶだ。

 ウイッグをオーダーしたあと、必要な物を見て回った。

 買い物は辛くはなかったが、アラモアナにショッピングに来ているツアー客は皆楽しそうで、綺麗な人ばかりだ。
嬉しそうで、キラキラ輝いている。




 この中で数日前に乳がんの告知されて、抗癌剤でハゲになるからウイッグを選んでいのなんて私くらいなんだろうなとふと思う。

 眉毛もまつげも抜けるという。 

 消えにくいアイブロウペンシルも購入した。Narsのもので16ドル。思わず「高いかな、無駄になるかもしれないのに」と思ってしまう自分がいた。そしてすぐに「無駄になんかしたくない!」と気持ちを引き締めた。


 もうすぐ手術の予定日もわかるだろう。

 怖い、大きな手術だ。6時間もかかるという。
違うふうに考えよう。これは整形手術なんだと。お腹の脂肪を取って胸も綺麗に大きくお直しをするだけだ、と。
そう考えると少し気持ちが楽になる。 

 なんでもなくて胸やお腹を整形手術する人がこの世にはたくさんいるのだから、と。
そして、髪の毛も抜けてしまうのなら、その間だけでもショートヘヤーを楽しもうと思った。ヘヤーカタログを買った。

 買い物に行ったのは週末で、月曜日には腫瘍専門医の予約だ。抗癌剤のスペシャリストだそうだ。吐き気と脱毛の質問をしようと思う。


☆最初に買ったウイッグ。今見ると派手ですね。病院のセラピードッグと一緒に。
   

腫瘍専門医と会う


 腫瘍専門医のドクターBの予約が入っていた。 11時のアポで名前を呼ばれたのは12時だった。

 このドクターは高齢男性で表情も言い方もとにかく暗かった。

 放射線医と話してやっと楽になった気持ちがまた沈む。そして医学生が一緒に居て訓練だとかでこれまでの経過を聞かれた。

 「……え~リンパ腺には転移していると思うけれど、あ~全部取ると腕が腫れる、一生注意しなければならないよ……」とボソボソと話す。会っていると具合が悪くなりそうだった。質問も出てこない。

 病院側は最高のドクターだという。
本当だろうか?部屋もぐちゃぐちゃで書類もあちこちにある。時間にもルーズだ。何よりも患者の気持ちを暗くさせるのは良いドクターといえるだろうか?どんどん気が重くなっていった。

 手術は1週間後くらいだ。

 怖い、すごく怖い。手術まではせめて息子に楽しい思いをさせたいと思い動物園に行った。 

 3人で歩く動物園。まるで何もかもが普通でバケーションに来ているような気持ちになる。息子も楽しそうだ。

 「キリンがいるよ~!」と汗をかいて嬉しそうな真っ赤な顔で走ってくる。また涙が出そうになる。夫が手をギュッと握ってくれた。




 ホテルの部屋は狭いなりに快適だったけど、自分のコンピューターがなかった。今のようなノートパソコンやタブレットもなくホテルのロビーに有料のコンピューターが置いてあった。これで10分いくらというようにネット接続できるのだけど、日本語が出てこない。

 日本語で情報が読みたかった。もっと本を買って来るべきだった。乳がん情報などの。

 「なんでもない、帰れる」と思いこみたくて、わざと探してこなかったのだった。手術の方法など聞き取れないことも多かった。

 手術後の運動のフィジカル・エクササイズの予約もあった。

 手術後は腕が上がらなくなるそうなので体操の仕方などを習う。

 その後またショックな話を聞いた。私の場合は再建手術は乳がん手術をした後のほうが良いと言われた。同時再建ではなく。 

 「きちんと全部治してから、それから1年後くらいのほうが良いと思う」と。それほどのリスクなのかと大ショックだった。

 「胸の中に腫瘍がいくつかあってリンパにも転移していると思うし、それから石灰化している所もあるし、とにかく治療が先ね」と。

 毎回のことだがやはり泣く。