この頃ようやく坊主頭になってきた。
まだ1センチもない。 まつげはだいぶ生えてきたビューラーでつかめるくらい生えてきたので嬉しい。
眉毛も短いけれどくっきり太くウイッグを取ると、いなせなおっさんだ、
引っ越しをしてからネットの買い物もできる。 日本の本も買うことができる。これは本当に嬉しい。
一番の問題は息子の学校だった。
息子は2年生のほとんどを学校に行けなかった。編入した学校で虐めにあっていた。
ハワイは旅行で行くには夢のようなパラダイスだが、住んでみてわかったのは、かなり特殊なところだということだ。 よそ者は受け付けない雰囲気がある。地元の人達は一見とてもフレンドリーだけど、ほんとうの意味で打ち解けていなかったと思う。
特に私達のいたところでは(日本人)と(白人)はかなり嫌われていた。白人でも肌が白ければ白いほどいじめられる。本土とは逆差別だった。
そして成績が良いものほど嫌われる。
日本人と白人のハーフ。 肌の色はロシア系の父親の血を引いて真っ白だ。
それから時々取っていた良い点数の答案用紙をぐちゃぐちゃに丸めて捨てていた。
後から軍関係の学校に入れたけれど、この頃は本当に悩みだった。
2年生のほとんどをホームスクールという家での勉強にしていた。
テキストのようなものをして、日本語もこの時教えた。
それから息子と毎日ドラクエをする。 ひらがなはだいぶ覚えてきた。
(やくそう)とか(たいまつ)とかあまり役には立たない単語だけど、日本語に興味を持ってくれて嬉しい。昔やったことがあるので、ボスの倒し方など知っているので
「わ~!!ママすごいね!」と尊敬される。こんなことでも、人生なんでも経験だなと思った。
ゲームをしながら、さり気なく自分の考えを伝えた。
「負けそうになったら逃げ出したって良いよ、やり直せばいいよ」
「雑魚は無視して大きいボスだけ倒せばいいよ」
「皆勇者なんだよ、冒険の途中の勇者なんだよ」
放射線27回目からドクターがマークをあちこちにつけ始めた。
広範囲に当てるのではなくピンポイントで当てるそうだ。 傷口を中心に強めに当てる。
放射線の方は副作用も穏やかなので、買い物にもいけるし料理も毎日作っていた。家事ができるのが嬉しかった。
ただ、後半になると脇の下まで赤くなって皮が剥けてきて痛くなってきた。
▲ ▲ ▲
10月になっていた。
長い長い放射線治療33回がやっと終わる。
最後の日にスタッフの寄せ書きやチョコレートの入ったバッグを風船をもらった。 3大治療が終わりすごく嬉しい!!
7ヶ月長かった。 手術は精神的にも肉体的にも辛かった。抗癌剤は一番きつかったと思う。次々に襲いかかる副作用との戦いの日々だった。
手術の後には幻肢痛も経験した。幻肢痛とは例えば手術で足を切断して、ないはずなの足が痛むという現象だ。
ないはずの胸が痛い。
思わず手を当てようとしてもそこには胸がない。
でも確かにそこが痛い。
そしてなんとないはずの胸から母乳が出ている気がするのだ。
それは気のせいという感じではなく、本物の感覚だった。もう絶対にできないことを胸が恋しがっているようだった。これは痛みよりも精神的にあまりにもあまりにも辛かった。
放射線治療も放射線をかけたところが爛れてしまい、皮がむけている。 まさにやけど状態でズキズキヒリヒリして痛くて眠れない。
ケロイドになっているところもある。夜軟膏を塗って、大きいガーゼを当てる。そうしないとパジャマに血や皮膚がついてしまうのだった。くっついてしまった布を取る時の痛さは言葉で表せなかった。
これはかなり長い間続いた。
傷はいつかは治る。痛みはいつか収まる。と自分に言い聞かせていた。
この放射線最後の日に腫瘍科の医者Bのアポイントメントもあった。
タモキソフィンというホルモンブロック剤を5年飲むことになった。 私の乳がんは女性ホルモンで増えるタイプなので、その女性ホルモンをブロックしてしまう薬なのだそうだ。
女性らしくなるために飲む人もいるホルモン剤を抑えてしまうとは。副作用を聞いて、またがっかりした。
体重の増加、肌荒れ、髪の毛は薄くなる。骨がもろくなる。
生理も止まる人が多いそうだ。無理に閉経のような感じになる。更年期障害も起こるという。
ほとんど治療は終わったと思っていたけど、まだ戦いの途中だった。
まだ1センチもない。 まつげはだいぶ生えてきたビューラーでつかめるくらい生えてきたので嬉しい。
眉毛も短いけれどくっきり太くウイッグを取ると、いなせなおっさんだ、
引っ越しをしてからネットの買い物もできる。 日本の本も買うことができる。これは本当に嬉しい。
一番の問題は息子の学校だった。
息子は2年生のほとんどを学校に行けなかった。編入した学校で虐めにあっていた。
ハワイは旅行で行くには夢のようなパラダイスだが、住んでみてわかったのは、かなり特殊なところだということだ。 よそ者は受け付けない雰囲気がある。地元の人達は一見とてもフレンドリーだけど、ほんとうの意味で打ち解けていなかったと思う。
特に私達のいたところでは(日本人)と(白人)はかなり嫌われていた。白人でも肌が白ければ白いほどいじめられる。本土とは逆差別だった。
そして成績が良いものほど嫌われる。
日本人と白人のハーフ。 肌の色はロシア系の父親の血を引いて真っ白だ。
それから時々取っていた良い点数の答案用紙をぐちゃぐちゃに丸めて捨てていた。
後から軍関係の学校に入れたけれど、この頃は本当に悩みだった。
2年生のほとんどをホームスクールという家での勉強にしていた。
テキストのようなものをして、日本語もこの時教えた。
それから息子と毎日ドラクエをする。 ひらがなはだいぶ覚えてきた。
(やくそう)とか(たいまつ)とかあまり役には立たない単語だけど、日本語に興味を持ってくれて嬉しい。昔やったことがあるので、ボスの倒し方など知っているので
「わ~!!ママすごいね!」と尊敬される。こんなことでも、人生なんでも経験だなと思った。
ゲームをしながら、さり気なく自分の考えを伝えた。
「負けそうになったら逃げ出したって良いよ、やり直せばいいよ」
「雑魚は無視して大きいボスだけ倒せばいいよ」
「皆勇者なんだよ、冒険の途中の勇者なんだよ」
放射線27回目からドクターがマークをあちこちにつけ始めた。
広範囲に当てるのではなくピンポイントで当てるそうだ。 傷口を中心に強めに当てる。
放射線の方は副作用も穏やかなので、買い物にもいけるし料理も毎日作っていた。家事ができるのが嬉しかった。
ただ、後半になると脇の下まで赤くなって皮が剥けてきて痛くなってきた。
▲ ▲ ▲
10月になっていた。
長い長い放射線治療33回がやっと終わる。
最後の日にスタッフの寄せ書きやチョコレートの入ったバッグを風船をもらった。 3大治療が終わりすごく嬉しい!!
7ヶ月長かった。 手術は精神的にも肉体的にも辛かった。抗癌剤は一番きつかったと思う。次々に襲いかかる副作用との戦いの日々だった。
手術の後には幻肢痛も経験した。幻肢痛とは例えば手術で足を切断して、ないはずなの足が痛むという現象だ。
ないはずの胸が痛い。
思わず手を当てようとしてもそこには胸がない。
でも確かにそこが痛い。
そしてなんとないはずの胸から母乳が出ている気がするのだ。
それは気のせいという感じではなく、本物の感覚だった。もう絶対にできないことを胸が恋しがっているようだった。これは痛みよりも精神的にあまりにもあまりにも辛かった。
放射線治療も放射線をかけたところが爛れてしまい、皮がむけている。 まさにやけど状態でズキズキヒリヒリして痛くて眠れない。
ケロイドになっているところもある。夜軟膏を塗って、大きいガーゼを当てる。そうしないとパジャマに血や皮膚がついてしまうのだった。くっついてしまった布を取る時の痛さは言葉で表せなかった。
これはかなり長い間続いた。
傷はいつかは治る。痛みはいつか収まる。と自分に言い聞かせていた。
この放射線最後の日に腫瘍科の医者Bのアポイントメントもあった。
タモキソフィンというホルモンブロック剤を5年飲むことになった。 私の乳がんは女性ホルモンで増えるタイプなので、その女性ホルモンをブロックしてしまう薬なのだそうだ。
女性らしくなるために飲む人もいるホルモン剤を抑えてしまうとは。副作用を聞いて、またがっかりした。
体重の増加、肌荒れ、髪の毛は薄くなる。骨がもろくなる。
生理も止まる人が多いそうだ。無理に閉経のような感じになる。更年期障害も起こるという。
ほとんど治療は終わったと思っていたけど、まだ戦いの途中だった。
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