手術当日
7時に病院入り。
5時半に起きてシャワーだけしてきた。 ボディーローションなどは塗れない。顔もクリームも何も塗れないのでバリバリでかさかさだ。
延命治療をどうするかというリビングウイルを書く。これはもしもの時の為の医療的な措置を書類にすること。
意識が戻らない場合は蘇生措置をとるのか尊厳死を希望するのかどうかを明確にする。 手術前に書かされる遺書のようだ。
悩んだが夫の意志に任せることにした。夫は医療関係者だ。きっと的確な判断ができるだろと思った。
それと日本の母のことも思った。もしものときは駆けつけてくれるのではないかと。その時まで装置をつけていて欲しいとも思った。せめてまだ暖かい娘に会いたいのではないか、と思ったのだ。
紫色の色素を胸の乳管に入れてレントゲンも撮る。
CTスキャンのようなものをも1時間かかった。 ウトウト眠ってしまった。 お腹も空いていた。
当日はもう覚悟が決まっていたので、2週間前のような不安はなかった。
裸の上から手術用の薄い布でできたガウンを着て待つ。この時間がとても長かった。朝から待って結局手術をしたのは夕方だった。
待合室で看護師がプラスチックの腕輪の名前を確認する。いよいよ手術だ。
「じゃあ行ってくるね!だいじょうぶだよ!」と夫と息子に笑顔を向ける。ガラガラとベッドのまま移動させられる。
「麻酔薬いれますよ」と点滴から麻酔薬を注入される。
あっという間に世界が暗転した。
手術後 1日目の夜
「麻酔薬をいれますよ」から
「起きてください」まで一秒くらいしか建っていない感覚だったが実際には手術を終えて数時間が経っていた。
まだ目がはっきりと覚める前にガクガクと震えていた。
「気持ちが悪い」と叫び歯がガチガチと鳴り、足が震える。
幾つもの顔が覗く、白黒だが時折強烈なフラッシュのような光が入る。
バッバッと白い光。誰かの顔、手を握る誰かの手の感触。
カモーン大丈夫ミセス?と誰かが呼んでいる。オーノーと誰かの声。
息ができない。
パニックになる。苦しい苦しい、もう一回息がしたい。この窒息しそうな瞬間はとても長かった。
この時多分喉に直接入れた管を抜いている時だったのだと思う。
足が跳びはねるほど震えていた。そして、また意識を失った。
その後また目が覚めた時には夫と息子がぼんやりと見えた。
手術室からリカバリー室そして一般の部屋に戻ってきたらしい。
大きな色とりどりのバラの花束とぬいぐるみとカードを持ってきてくれていた。嬉しかったが、その日はとても目を開けていられなかったので、そのまま、また暗闇に引きずり込まれた。
ハッと夜中何度か目が覚めた。隣の部屋がうるさい。それでも頭がふらふらして、ただただ眠い。目を閉じた瞬間、別の世界に行ってしまうようだった。
痛み止めにモルヒネを使っていた。
点滴につながっており、痛みのあるときはボタンを押すように言われていた。致死量が入らないようになっていたが、知らずに何回もボタンを押して注入して気分が悪くなっていった。
吐き気が止まらない。何度も吐き気止めの薬をもらうがあまりきかなかった。
担当のナースは意地が悪く言い方がきつい人だった。
「お水をください」と言うと、面倒くさそうにプラスチックのコップを受け取リ、床に落とした。そのまま水を汲もうとするので
「他のコップと取り替えるか、せめてゆすいでください」と言うと、チッと舌打ちをされた。
夜中このナースに立ってトイレに行きなさいと言われる。
「できません」と言うと「できるわよ、あなたが手術したのは足じゃないでしょう」という言い方をされた。
それでも起きられない無理です。というと タライのようなものをお尻の下に入れて、横になったまましろ、という。それも出来ないというと1時間位そのままにされた。退院してからタライの後がミミズ腫れののように真っ赤に晴れていた
どのくらい後か覚えていないが、ゆっくり起き上がり、一歩一歩あるいてトイレに向かう。3回ほど吐く。 吐くと言っても何もお腹に入っていないのだが。
手術後で弱っているので言い返したりできないのがつらい。 ナースの仕事もきつのだろうと思うけれど、はじめての手術患者にもう少し優しくしてくれたら良いのにと思った。
目を開けていられない、かと言って寝入っているわけではない。2時間おきに起こされる。血圧と体温のチェック。足には数分おきに膨らんでふくらはぎを圧迫する物をつけている。血栓予防のためだが、これもうるさい。
ぐっすりと眠ったほうが回復するのではないかと起こされるたびに思った。
2日目
朝はジュースとスープの朝食だったがとても食べられなかった。
眠気と吐き気が同時に襲ってくる。起き上がるどころか、横を向くだけでも吐き気が襲ってくる。
胸にはきつく晒のように包帯が巻いてあった。痛くて、熱い。
ものすごく分厚い焼けただれた石版が載せられているような感じだ。
そっと触ってみると、感触もカチカチだった。平たく硬い。
午前中、夫と息子が来てくれた。 小さいぬいぐるみを持って。嬉しくて、元気が出てくる。家族の愛情が一番の回復薬だった。
病院の中で売っている小さいぬいぐるみを手術や入院の度に買ってきてくれるようになった。
吐き気もだいぶ止まってきたのでランチを食べてみる。
ランチと言ってもクリアビーフコンソメ、ゼリーを一口、グレープジュース一杯。力が湧いてきた。アイスティーにお砂糖を入れてもらって飲む。ものすごく回復していくのを感じた。食事の力はすごい。
それ以来すっと立ちあがれるようになり、トイレにも歩いていける。
昨夜とは全く違う。1日でこれほど回復するものだろうか? 食事の大切さを改めて知る。
夕食もチキンコンソメやゼリーそれからパイナップルジュース。完食出来た。
「固形のもの食べられそう?」と聞かれたので「もう食べられそう」と言うと、なんと肉が出てきたので驚いた。すごくアメリカらしいと思った。
硬いご飯3口、肉1切れ、グリーンビーンズ2本パン一口を食べられた。それを記録しながら
「食べられるから明日は退院ね」といった。
3日目 退院
まさか3日で退院できるとは思わずびっくりだ。
手術前に買っておいたかぶるタイプのワンピースをなんとか着た。左腕は全く上がらない。
最初の日は吐き気がひどく足にまいて自動で膨らむサーキュレーションも嫌だった。なによりも2時間おきに起こされるので、家に早く帰りたかった。
ただ、帰るのは家ではなくホテルだ。入院直前にワイキキにあるホテルから基地の中の長期ステイの施設へ移ることが出来た。ここはキッチンも付いているので闘病にはこちらのほうがうんと良い。
胸にはがっちり広い包帯が巻いてある。さらしのようだ。
胸の下からチューブが2本出ている。ここの先にプラスチックの容器がつていて、体液が貯まるようになっている。これを毎日記録して中身を捨てる。
夫が食事の用意から薬、息子の世話と全部してくれていた。
▲ ▲ ▲
帰った日の夕食にご飯を炊いてくれて味噌汁を作ってくれてことは忘れられない。やはり私のソウルフードだ。あっという間に元気になる。
そして息子に勉強を教えたり、夜はルーンスケープというオンラインゲームを一緒にやっていた。 コンピューターの中のキャラクターだが、親子一緒に冒険をしていた。
手術や入院の間に親子の絆が強くなっている感じがした。いろいろな話をしたのだと思う。夫はどう説明したのだろうか?
私はベッドでテレビを見たりして過ごす。うつらうつらしては、はっと目が覚める。夜まとめて眠れなかった。
Oxycodone という強い痛み止めを4,5時間おきに飲んでいた。
1日5回位だったが朝が一番痛く2錠飲んだ時は全身がしびれてうまく息ができなかったので1錠にしていた。かなり強い薬なのだろうと思う。
▲ ▲ ▲ ▲ ▲
☆病院の一階にお見舞いの品を買うお店があり、手術の後目を開けたら大きな花束と可愛いぬいぐるみがありました。
喜んだ私を見て、息子は入院や手術のたびに買ってきてくれるようになりました。
さきほど出して並べたところです。
14年前が一気に戻ってきて涙が出そうになりました。
7時に病院入り。
5時半に起きてシャワーだけしてきた。 ボディーローションなどは塗れない。顔もクリームも何も塗れないのでバリバリでかさかさだ。
延命治療をどうするかというリビングウイルを書く。これはもしもの時の為の医療的な措置を書類にすること。
意識が戻らない場合は蘇生措置をとるのか尊厳死を希望するのかどうかを明確にする。 手術前に書かされる遺書のようだ。
悩んだが夫の意志に任せることにした。夫は医療関係者だ。きっと的確な判断ができるだろと思った。
それと日本の母のことも思った。もしものときは駆けつけてくれるのではないかと。その時まで装置をつけていて欲しいとも思った。せめてまだ暖かい娘に会いたいのではないか、と思ったのだ。
紫色の色素を胸の乳管に入れてレントゲンも撮る。
CTスキャンのようなものをも1時間かかった。 ウトウト眠ってしまった。 お腹も空いていた。
当日はもう覚悟が決まっていたので、2週間前のような不安はなかった。
裸の上から手術用の薄い布でできたガウンを着て待つ。この時間がとても長かった。朝から待って結局手術をしたのは夕方だった。
待合室で看護師がプラスチックの腕輪の名前を確認する。いよいよ手術だ。
「じゃあ行ってくるね!だいじょうぶだよ!」と夫と息子に笑顔を向ける。ガラガラとベッドのまま移動させられる。
「麻酔薬いれますよ」と点滴から麻酔薬を注入される。
あっという間に世界が暗転した。
手術後 1日目の夜
「麻酔薬をいれますよ」から
「起きてください」まで一秒くらいしか建っていない感覚だったが実際には手術を終えて数時間が経っていた。
まだ目がはっきりと覚める前にガクガクと震えていた。
「気持ちが悪い」と叫び歯がガチガチと鳴り、足が震える。
幾つもの顔が覗く、白黒だが時折強烈なフラッシュのような光が入る。
バッバッと白い光。誰かの顔、手を握る誰かの手の感触。
カモーン大丈夫ミセス?と誰かが呼んでいる。オーノーと誰かの声。
息ができない。
パニックになる。苦しい苦しい、もう一回息がしたい。この窒息しそうな瞬間はとても長かった。
この時多分喉に直接入れた管を抜いている時だったのだと思う。
足が跳びはねるほど震えていた。そして、また意識を失った。
その後また目が覚めた時には夫と息子がぼんやりと見えた。
手術室からリカバリー室そして一般の部屋に戻ってきたらしい。
大きな色とりどりのバラの花束とぬいぐるみとカードを持ってきてくれていた。嬉しかったが、その日はとても目を開けていられなかったので、そのまま、また暗闇に引きずり込まれた。
ハッと夜中何度か目が覚めた。隣の部屋がうるさい。それでも頭がふらふらして、ただただ眠い。目を閉じた瞬間、別の世界に行ってしまうようだった。
痛み止めにモルヒネを使っていた。
点滴につながっており、痛みのあるときはボタンを押すように言われていた。致死量が入らないようになっていたが、知らずに何回もボタンを押して注入して気分が悪くなっていった。
吐き気が止まらない。何度も吐き気止めの薬をもらうがあまりきかなかった。
担当のナースは意地が悪く言い方がきつい人だった。
「お水をください」と言うと、面倒くさそうにプラスチックのコップを受け取リ、床に落とした。そのまま水を汲もうとするので
「他のコップと取り替えるか、せめてゆすいでください」と言うと、チッと舌打ちをされた。
夜中このナースに立ってトイレに行きなさいと言われる。
「できません」と言うと「できるわよ、あなたが手術したのは足じゃないでしょう」という言い方をされた。
それでも起きられない無理です。というと タライのようなものをお尻の下に入れて、横になったまましろ、という。それも出来ないというと1時間位そのままにされた。退院してからタライの後がミミズ腫れののように真っ赤に晴れていた
どのくらい後か覚えていないが、ゆっくり起き上がり、一歩一歩あるいてトイレに向かう。3回ほど吐く。 吐くと言っても何もお腹に入っていないのだが。
手術後で弱っているので言い返したりできないのがつらい。 ナースの仕事もきつのだろうと思うけれど、はじめての手術患者にもう少し優しくしてくれたら良いのにと思った。
目を開けていられない、かと言って寝入っているわけではない。2時間おきに起こされる。血圧と体温のチェック。足には数分おきに膨らんでふくらはぎを圧迫する物をつけている。血栓予防のためだが、これもうるさい。
ぐっすりと眠ったほうが回復するのではないかと起こされるたびに思った。
2日目
朝はジュースとスープの朝食だったがとても食べられなかった。
眠気と吐き気が同時に襲ってくる。起き上がるどころか、横を向くだけでも吐き気が襲ってくる。
胸にはきつく晒のように包帯が巻いてあった。痛くて、熱い。
ものすごく分厚い焼けただれた石版が載せられているような感じだ。
そっと触ってみると、感触もカチカチだった。平たく硬い。
午前中、夫と息子が来てくれた。 小さいぬいぐるみを持って。嬉しくて、元気が出てくる。家族の愛情が一番の回復薬だった。
病院の中で売っている小さいぬいぐるみを手術や入院の度に買ってきてくれるようになった。
吐き気もだいぶ止まってきたのでランチを食べてみる。
ランチと言ってもクリアビーフコンソメ、ゼリーを一口、グレープジュース一杯。力が湧いてきた。アイスティーにお砂糖を入れてもらって飲む。ものすごく回復していくのを感じた。食事の力はすごい。
それ以来すっと立ちあがれるようになり、トイレにも歩いていける。
昨夜とは全く違う。1日でこれほど回復するものだろうか? 食事の大切さを改めて知る。
夕食もチキンコンソメやゼリーそれからパイナップルジュース。完食出来た。
「固形のもの食べられそう?」と聞かれたので「もう食べられそう」と言うと、なんと肉が出てきたので驚いた。すごくアメリカらしいと思った。
硬いご飯3口、肉1切れ、グリーンビーンズ2本パン一口を食べられた。それを記録しながら
「食べられるから明日は退院ね」といった。
3日目 退院
まさか3日で退院できるとは思わずびっくりだ。
手術前に買っておいたかぶるタイプのワンピースをなんとか着た。左腕は全く上がらない。
最初の日は吐き気がひどく足にまいて自動で膨らむサーキュレーションも嫌だった。なによりも2時間おきに起こされるので、家に早く帰りたかった。
ただ、帰るのは家ではなくホテルだ。入院直前にワイキキにあるホテルから基地の中の長期ステイの施設へ移ることが出来た。ここはキッチンも付いているので闘病にはこちらのほうがうんと良い。
胸にはがっちり広い包帯が巻いてある。さらしのようだ。
胸の下からチューブが2本出ている。ここの先にプラスチックの容器がつていて、体液が貯まるようになっている。これを毎日記録して中身を捨てる。
夫が食事の用意から薬、息子の世話と全部してくれていた。
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帰った日の夕食にご飯を炊いてくれて味噌汁を作ってくれてことは忘れられない。やはり私のソウルフードだ。あっという間に元気になる。
そして息子に勉強を教えたり、夜はルーンスケープというオンラインゲームを一緒にやっていた。 コンピューターの中のキャラクターだが、親子一緒に冒険をしていた。
手術や入院の間に親子の絆が強くなっている感じがした。いろいろな話をしたのだと思う。夫はどう説明したのだろうか?
私はベッドでテレビを見たりして過ごす。うつらうつらしては、はっと目が覚める。夜まとめて眠れなかった。
1日5回位だったが朝が一番痛く2錠飲んだ時は全身がしびれてうまく息ができなかったので1錠にしていた。かなり強い薬なのだろうと思う。
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☆病院の一階にお見舞いの品を買うお店があり、手術の後目を開けたら大きな花束と可愛いぬいぐるみがありました。
さきほど出して並べたところです。
14年前が一気に戻ってきて涙が出そうになりました。
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