手術の後の胸の組織を検査した結果が出た。一番大きい腫瘍が4、5センチ。 脇のリンパに2つ、胸のリンパに一つ。そして胸の中に出来かけている癌もあるらしい。
これから抗癌剤で治療していくことになる。自分が思っているよりも良かったが、それでも4、5センチとは……みかんぐらいの大きさだ。
そんなに大きな癌だったから触診で見逃されたのだった。
乳がんを触診で発見するときは(小豆大)が多いという。まさか(みかん)のような塊が癌腫瘍だったなんて、ベテランの医者も考えられなかったらしい。
そしてまことしやかにまかり通っていた(癌は痛くない)というのも嘘だった。
ズキズキと痛んでいた。乳腺炎になったことがあるのだが、その痛みにそっくりだった。触った感じも似ていた。 母乳なんてとっくに出ていなかったのに、なぜだろうと思っていた。
6ヶ月以上かかる治療のため、夫はハワイの基地へ転勤することになった。仕事に空きがあったのはラッキーだったと思う。 なんと上司として転勤してくる人も奥さんキャシーがY基地で乳がんになった人だった。 後からキャシーと私は友だちになリ、闘病中を支えあった。
北のM在日基地から来ていた女性は、旦那さんの職種の空きがなく、ユタ州へ行くことになった。日本の基地に専門医がいなかったため、まずハワイに検査に来て、それから本国の基地に飛ばされる。
私はできることなら日本に帰りたかった。 日本へ帰ったのは2012年の始めだった。 それまで3年間アイダホ州の田舎に住んでいてノイローゼのようになっていた。 乳がんはここでのストレスではないかと密かに考えていた。
アジア人はほとんどいない地区で保守的な場所だった。悲しい思いや、つらい思いをした。 別れてでも日本に帰りたいと思った。 そうやって頑張った3年間、やっと帰れた日本でこんどは癌が発覚したのだった。日本には1年少ししかいられなかった。
◆ ◆ ◆
息子の精神状態
引っ越すことが決まったが、荷造りに日本へ帰ることが出来ない。 手術をしてから3週間が経っていた。 もうすぐ抗癌剤が始まる。 引っ越しのために夫が息子を連れて日本へ帰ることになった。
息子の学校の転入手続きもしなければいけない。日本のY基地の学校に一年生から入り、やっと慣れたところだったのに、またアメリカの学校に転校することになってしまった。
この頃から少しづつ息子の精神状態が不安定になっていった。 住んでいる場所にいたら自分の病状は隠していたかもしれない。しかしハワイに何ヶ月も連れて行くとなると隠すことは出来ない。
病気のことを話し、手術のことや治療のことを話した。
そして病院での包帯を巻かれた弱っている母親を何回も見て、ホテルでもずっとベッドで寝ている以前と全く違う母親を見て、不安と恐怖に押しつぶされそうだったのだろう。急に泣きだすことも多くなっていった。
抗癌剤の説明もしたのだが髪の毛が抜けるというところで号泣した。
「ママが変わったら嫌だよ。変わらないで! I like the way you are!(そのままが好きなんだ)」と大泣きした。
「ママの外見は少し変わるかもしれないの、でも中身は同じだよ。同じハートの同じママだよ。I love you の気持ちはどんなことがあっても変わらないよ。いつも、いつまでも大好きだよ」と言った。
今度は「うれしい」と大泣きした。
抱きしめて 同じ言葉を繰り返した。
何度も悪夢や悪い想像をしたと泣いていた息子。
「ママがいなくなる、小さくなって消えちゃうの」と泣きじゃくる。
この頃から息子の精神状態が不安定になっていく。 情緒不安定で赤ちゃん返りのようなこともあった。
手続きが終わり、やっと編入した基地の中の小学校の教室に入れなかった。
一歩入ったら大泣きし、ついていった夫は帰れずに一日中ずっといたこともあった。
授業を諦め、毎朝学校のカウンセラーのところへ行くことになった。アメリカの小学校には心理カウンセラーがいて、精神的な相談などができる。
カウンセラーは毎朝なにか楽しいゲームを考えて遊んでくれていた。それでもやはり帰りたいと泣く日々が続いた。
困った私たちは考えた末に家で勉強を教えるホームスクールに変更することにした。
ずっと後になって、この時の話をしたのだが
「学校に行っている間にママになにかあって、会えなかった、間に合わなかった、というのがすごく怖かったんだ」と言っていた。
もう少し子供の気持ちをわかってあげられたら良かった、と思った。
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