2017年9月29日金曜日

 学校でのいじめ 元がん患者からサバイバーへ


 病院通いが終わり、やっとのんびりできる。 

 家に居る時は日本から送ってもらったビデオを見て過ごした。息子は毎日学校へ行っている。 せっかく通えている学校だけど、色が白い息子は今度は虐めにあっていた。

 本土とは反対の差別で肌が白いといじめられる。 こんな楽園のようなハワイだが、学校は荒んでいた。 今度こそと思っていたのに本当にがっかりした。少しでも改善されるように体調に良い日はボランティアに行くことにした。

 ハワイは高級な地区と貧しい地区にはっきりと分かれている。 貧しい地区には犯罪もとても多い。バケーションで遊びに行くハワイとは全く違う一面を住んでみて見ることになる。

 ある日、レースフォーキュアの1マイルウオーキングに参加した。

 5時に起き、ワイキキの会場へ。参加費を払いTシャツと帽子を受け取る。
Tシャツは患者はピンク色。サポートする人は白いシャツだ。 ゼッケンに色々な思いが書いてある。 (母のために)(大事な友だちのために)読んでいるうちに目頭が熱くなる。

 驚いたことにものすごい人数のピンクのシャツの女性がいた。 

 これだけの人が皆乳がんと闘ったのだ。 そしてその何倍もの白いシャツの人。 これだけの人が気にかけサポートしてくれている。 サバイバーの会の人達も来ていた。もちろんピンクのシャツだ。立ち話をする。

 こんなにも沢山の人。 私はちっとも1人じゃなかった。 

 そしてピンクのシャツを着て歩く私はものすごく特別な気持ちがした。

 両側には白いシャツの夫と息子が一緒に歩いてくれている。

 この日、私ははじめて(元乳がん患者)から(サバイバー)になった。

 イガグリ頭に直接帽子をかぶる。 ゴールをして、首にレイをかけてもらい、サバイバー全員で写真を撮った。

はじめてがんと戦った自分を誇りに思えることが出来た。





 11月になり、自分たちの家が建ったので、また引っ越しをする。

 トラックを借りてタウンハウスからの荷物を運びいれた。 翌日は今まで港に保留状態だったコンテーナーの荷物がやっときた。ものすごい量の荷物だ。 3月から8ヶ月ぶりに自分の持ち物と対面した。 箱の外側に書いてある字を読みながら、キッチンや2階に箱を運ぶ。

 息子も大喜びだった。 自分の(もの)私もとても嬉しいけれどあまりの量の多さに途方に暮れる。

 洋服の箱を開けてみたら冬物がぎっしりでがっかりした。 ここではいらないものだ。かなり処分しないとクローゼットにも入りきらないと思った。

 必要な物を買ったり、整理したり忙しいけれど人間らしい生活はすごく嬉しかった。

 しばらく忙しい日々が続いた。 新しい家でクリスマスパーティーもした。 楽しいクリスマスも過ごせた。お正月の食品を日本食品店に買い出しにも行った。 

 大晦日には夫ママがカリフォルニアからまた来て、ハワイの風習の花火を一緒にする。 大晦日にはどこの家でも花火をして、もうすごく騒がしい年末年始を迎えるのだった。

 

 数カ月前の抗がん剤治療の頃と比べると夢の様な日々。 ハワイの生活を楽しみ見ながら再建手術を出来る日を楽しみに待っていた。

 放射線の痕もだいぶ痛くなくなってきたので、海にも入ることが出来た。 ハワイの海の浅瀬に横たわると傷が癒えてくる気がした。 

 この頃はまだウイッグをかぶっていた。 まだすごく短い。5センチ位だ。

 1月の終わり、キャリ-の家に行った時にはじめてウイッグを外した。 その髪型のまま学校にも行った。学校のボランティアを始めていたのだった。

 ショートから、ものすごいベリーショートにしたような感じででかけた。優しい先生は
息子の前で

「その髪型とっても素敵」と言ってくれたので、嬉しそうだった。

 学校のいじめのことは気になるが、良い先生に巡り会えて幸運だった。


 この学校は地元の子供ばかりが来る学校で、日本人と白人の子供は息子だけだった。白人は(ハオレ)と呼ばれ差別される。肌が白いほどいじめられる学校だったが、本土から来た先生も金髪の白人で、よく気をつけてみてくれていた。
 
 最初は「学校に行っている間にママがいなくなってしまうかもしれない」という妄想に悩まされていた息子は約1ヶ月教室の前で泣いて中に入ることができなかった。今写真を見ると見事に1人だけ白い。そして泣き虫だった。それから、アメリカの小学校は両親どちらかが迎えに行くのだが、ほとんど寝たきりの私にはそれができず、クラスメイトのお母さんに頼んでいた。

 そんなことで格好のいじめの的になっていた。
 
 この時の先生がいつも気にかけ、優しい言葉をかけてくださったが、3年生が終わるとアメリカ本土に帰ることになってた。4年生で先生が変わってから、学校の状態はさらに悪くなり、軍関係の学校に編入することになったのだった。
 
 息子のこの頃のことを思うと今でも胸が痛む。



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 この頃の私は抗癌剤と放射線で歯がボロボロになっていた。上の前歯6本ともクラウンにした。

 ウイッグを取ったら、ハワイの風を感じられる。 暑いハワイでウイッグをかぶった生活は思いのほか辛いことだった。

 歯も直したので笑うことができる。これで胸を再建できたらどれほど嬉しいだろうと思った。

 だが現実はなかなか厳しかったのだった。

 

 3月になった。 

 1年前の3日にハワイに来た。 息子は9歳になった。

 前半は寝てばかりで泣いてばかりの日々だったが、穏やかなハワイの気候に癒やされながら1年過ごすことが出来た。

 息子も急に泣いたりすることはなくなったが、学校で辛い思いをすることが本当に多かったのだ。とても好きだった日本を急に離れて誰も知らないハワイへ来て元気だった母親は手術を繰り返し寝込んでいる。

息子にとってのハワイは嫌な思い出ばかりだろうと思う。

 全部私のせいだと思うと、いたたまれない気持ちになった。





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