引っ越しの用意をしなくてはならないので夫が日本へ行くことになった。
息子は少しでも前の学校に行けたら友達にも会えると思い一緒に行かせたのだが、朝から行かないと大泣きだった。
空港にいる夫から電話が入る。
「すぐに帰ってくるからね、がんばるんだよ」というバックグラウンドは息子の叫び声だった。
「飛行機に乗らない~」と大泣いていた。その声を聞いて胸が痛くなる。私も離れたくなかった。それでも行かせたのは何も出来ない私と一緒よりも夫と一緒のほうが安心だったのだ。
最近ずっと夜も2人で寝ていてゲームをしたり遊んだり、すごく絆が強まったように思う。
今泣いているけれど、日本で楽しんで欲しい。元気いっぱいの笑顔で帰ってきて欲しい。
この頃から上司の奥さんキャリーとよく電話するようになる。
この人は年上で細身の白人女性だ。長いカーリーのブロンドへヤーが自慢で、髪の毛が抜ける事を今から悲しんでいた。
吐き気は収まっているけれど、ひどい疲労感が襲ってくる。 それから喉が焼けつくように痛む。味もわからない。舌の上にサランラップをかぶせているような感じだ。
夜は1人で注射も出来た。実は怖くてブルブル震えていると注射器の針が偶然おなかに刺さってしまった。なので、そのまま薬を注入した。 もう大丈夫だ、怖くない。
夜遅く夫から電話が入る。息子とも話をしたら、嬉しそうにはしゃいでいた。
「大好きなツナおにぎり食べたよー。家の中はね、まだパーティーの後のままだよ。これからゲームするの」なんて言ってて朝大泣きしたのがウソのようだ。 久しぶりの自分の家、自分の部屋で嬉しかったのだろう。
「ママの顔を思い出すと悲しくなる」なんていう、とてもかわいい。少し強くなれたかな、ハッピーな声を聞けてとても嬉しかった。
車の運転ができないので夫のいない間の病院への送迎を友人に頼んだ。 抗癌剤は2週間に一回だ。
3週間に一回のところ「続けざまに攻撃したほうが効果が良いと思う」というドクターの言葉を信じて投薬していた。
10日間は生きる屍のようで元気でいられるのは4日程度だった。 この4日を利用して外に出たり家事をする。
キャリーと一緒に買物にもでかけた。キャリーもハワイに移住することになったが、それまでの間病院隣りにある施設に泊まってたが、やはり家を買うことになった。
3回めの抗癌剤も終わり、だんだん慣れてきた。疲労感や吐き気はあるものの、最初の日、それから後半4日はなかなか元気でいられる。
夫の母がカリフォルニアから電話をしてくれた。 もうすぐ来てくれることになっている。その日は疲労感がひどく、横になったまま力なく話をする。
付き合っている人がこんなひどいこと言ったのよ、なんていう内容の話
「なにそれ!ひどい!!」とがばっと起き上がってしまった。
「あら!元気が出た」と笑っている。
「胸の傷見てあげるから」と言い「息子が剃ったのなら私も髪を剃るわ」と言ってくれた。夫の母本気だ。もちろんNo way!(絶対ダメよ)といったけれど、その気持がジーンと胸を打った。
この優しい夫の母親もこの後乳がんになるなんて、この時は知る由もなかった。
コンピューターがあるのでメールもかけるので、それが嬉しい。
ただ、インターネットで乳がんのことをいろいろ調べてしまうので、落ち込むことも多かった。当時はブログもそれほど盛んではなく、やっと調べてたどり着いてもブログ主さんが亡くなってしまっている場合も多かった。
わかっていても、見てしまうと辛くなる。
自分よりもステージが高い人が長生きしているブログはないかずっと探していたような気がする。
病院でもらってきた抗癌剤の本も読みだした。
英語なので読む気がしなかったのだが、少しでも情報がほしいと思い読み始める。
喉の痛みがひどかったのが副作用だと知った。もうっと用語を勉強しなければならない。
日本に行っている夫は大急ぎで手続きなどをして2週間で帰れるという。 すごく嬉しかった。
息子は仲良しの友達とまた別れてくることになる。 つらい思いをさせている。
2人が居ないととても寂しい。一緒にいるだけで安心する。
ついに家に帰れないまま引っ越しになる。 箱詰めや引越し作業を見ていなかったので、この後数年まだ同じ場所に住む場所があるような気がしていた。
3月にハワイに来て3ヶ月たっていた。
3度めの抗癌剤は同じガンを患っているキャリーが病院まで送ってくれた。その前日の腫瘍専門医のBのアポイントメントも連れて行ってもらったのだが、また1時間待たされた。
「いつもこうなの?いいかげんね!」と怒っている。 血液検査も待たされた。 キャリーは抗癌剤はまだなので、いろいろな副作用の話をする。
副作用の一つに味が変わるというのがある。 水を飲んでも辛かったり甘かったりする。 一度エビを食べたら飛び上がるほど辛かった。 敏感になっているのかといえばそうでもなく、全く味がしないこともあった。
抗癌剤は4時間ほどかかるのでキャリーは一度帰って、終わる頃また来てくれた。それもありがたかったし、同じ話題の話をできる友人が居たことは精神的にすごく楽だった。
日本の夫が食品や雑誌ビデオなどを送ってくれて、すごく嬉しかった。
引越業者が来て箱詰め中だそうだが、その合間に必要な物を分けておいてくれた。ありがたい。 ここは自分の家ではなく、荷物も最小限しか持ってきていなかったので、自分のものが少しでも手元にあると気持ちがとても違うものだ。
夫と息子は日本だが、母が来てくれていた。2回めの抗癌剤のころだった。
来てすぐに大げんかをした。母は思ったことを何でも言ってしまう人で悪気はないのはわかっているが、こういう精神が安定していない時には受け止められないのだった。抗癌剤中に興奮したので心臓がぶるんと震えて止まるかと思った。
状況をなかなかわかってくれなかった。白血球がすごく減っているので、気をつけなければならないだけど、アメリカ式の使いにくいシャワーを浴びたくないと言うので、困ってしまった。
ただ一度したケンカ以来気を使ってくれている。 話をしていると、気分も紛れてくる。
母が来てすぐの頃に「日本に帰りたい、どうせ死ぬなら日本で死にたい」と言ってしまい泣かせてしまった。 そしておしゃれが好きだった私をいつも褒めてくれていたので、丸坊主の頭を見るのがとてもつらそうだ。
やっと顔を見て「かわいいよ」と言ってくれたのだが泣きだしてしまった。 嘘をつくのが苦手なのだ。
もう一人の母、夫のお母さんも毎日のように電話をくれていた。 多くの人に支えられているのだと感じた。
見えてきたことがたくさんある。
2人の母と中学校からの親友は特に心配して電話をよくかけてくれた。母は日本から来てくれているし、夫ママも1ヶ月後くらいに来てくれる予定になっていた。
知り合いも本や雑誌や食品を送ってくれたり、カードやお見舞金をを頂いたりもした。
離れていった人もいた。元小学校の関係者、いわゆるママ友と呼ばれる人たちなどだ。
打ち明けるのは勇気がいるけれど急な引っ越しで言わないわけにはいかなかった。
こういう重い病気にかかると、誰が本当に気にかけてくれているのかがよくわかる。離れていった人たちのことは気にしないようにしようと後から思ったが、その当時は精神的にきつかった。
見えないものがあれこれと見えてくるのだけど、今まで目をつぶって見ないようにして来たこともたくさんあるんだなと思った。
優しい人の心に触れると嬉しくなるし元気が出てくる。 特に親友の明るい大きな声を聞くと元気がもりもりと出てくる。 どれほど助けられたかわからない。
人は沢山の人に支えられているのだと、病気をして初めてわかったのかもしれない。
息子は少しでも前の学校に行けたら友達にも会えると思い一緒に行かせたのだが、朝から行かないと大泣きだった。
空港にいる夫から電話が入る。
「すぐに帰ってくるからね、がんばるんだよ」というバックグラウンドは息子の叫び声だった。
「飛行機に乗らない~」と大泣いていた。その声を聞いて胸が痛くなる。私も離れたくなかった。それでも行かせたのは何も出来ない私と一緒よりも夫と一緒のほうが安心だったのだ。
最近ずっと夜も2人で寝ていてゲームをしたり遊んだり、すごく絆が強まったように思う。
今泣いているけれど、日本で楽しんで欲しい。元気いっぱいの笑顔で帰ってきて欲しい。
この頃から上司の奥さんキャリーとよく電話するようになる。
この人は年上で細身の白人女性だ。長いカーリーのブロンドへヤーが自慢で、髪の毛が抜ける事を今から悲しんでいた。
吐き気は収まっているけれど、ひどい疲労感が襲ってくる。 それから喉が焼けつくように痛む。味もわからない。舌の上にサランラップをかぶせているような感じだ。
夜は1人で注射も出来た。実は怖くてブルブル震えていると注射器の針が偶然おなかに刺さってしまった。なので、そのまま薬を注入した。 もう大丈夫だ、怖くない。
夜遅く夫から電話が入る。息子とも話をしたら、嬉しそうにはしゃいでいた。
「大好きなツナおにぎり食べたよー。家の中はね、まだパーティーの後のままだよ。これからゲームするの」なんて言ってて朝大泣きしたのがウソのようだ。 久しぶりの自分の家、自分の部屋で嬉しかったのだろう。
「ママの顔を思い出すと悲しくなる」なんていう、とてもかわいい。少し強くなれたかな、ハッピーな声を聞けてとても嬉しかった。
車の運転ができないので夫のいない間の病院への送迎を友人に頼んだ。 抗癌剤は2週間に一回だ。
3週間に一回のところ「続けざまに攻撃したほうが効果が良いと思う」というドクターの言葉を信じて投薬していた。
10日間は生きる屍のようで元気でいられるのは4日程度だった。 この4日を利用して外に出たり家事をする。
キャリーと一緒に買物にもでかけた。キャリーもハワイに移住することになったが、それまでの間病院隣りにある施設に泊まってたが、やはり家を買うことになった。
3回めの抗癌剤も終わり、だんだん慣れてきた。疲労感や吐き気はあるものの、最初の日、それから後半4日はなかなか元気でいられる。
夫の母がカリフォルニアから電話をしてくれた。 もうすぐ来てくれることになっている。その日は疲労感がひどく、横になったまま力なく話をする。
付き合っている人がこんなひどいこと言ったのよ、なんていう内容の話
「なにそれ!ひどい!!」とがばっと起き上がってしまった。
「あら!元気が出た」と笑っている。
「胸の傷見てあげるから」と言い「息子が剃ったのなら私も髪を剃るわ」と言ってくれた。夫の母本気だ。もちろんNo way!(絶対ダメよ)といったけれど、その気持がジーンと胸を打った。
この優しい夫の母親もこの後乳がんになるなんて、この時は知る由もなかった。
コンピューターがあるのでメールもかけるので、それが嬉しい。
ただ、インターネットで乳がんのことをいろいろ調べてしまうので、落ち込むことも多かった。当時はブログもそれほど盛んではなく、やっと調べてたどり着いてもブログ主さんが亡くなってしまっている場合も多かった。
わかっていても、見てしまうと辛くなる。
自分よりもステージが高い人が長生きしているブログはないかずっと探していたような気がする。
病院でもらってきた抗癌剤の本も読みだした。
英語なので読む気がしなかったのだが、少しでも情報がほしいと思い読み始める。
喉の痛みがひどかったのが副作用だと知った。もうっと用語を勉強しなければならない。
日本に行っている夫は大急ぎで手続きなどをして2週間で帰れるという。 すごく嬉しかった。
息子は仲良しの友達とまた別れてくることになる。 つらい思いをさせている。
2人が居ないととても寂しい。一緒にいるだけで安心する。
ついに家に帰れないまま引っ越しになる。 箱詰めや引越し作業を見ていなかったので、この後数年まだ同じ場所に住む場所があるような気がしていた。
3月にハワイに来て3ヶ月たっていた。
3度めの抗癌剤は同じガンを患っているキャリーが病院まで送ってくれた。その前日の腫瘍専門医のBのアポイントメントも連れて行ってもらったのだが、また1時間待たされた。
「いつもこうなの?いいかげんね!」と怒っている。 血液検査も待たされた。 キャリーは抗癌剤はまだなので、いろいろな副作用の話をする。
副作用の一つに味が変わるというのがある。 水を飲んでも辛かったり甘かったりする。 一度エビを食べたら飛び上がるほど辛かった。 敏感になっているのかといえばそうでもなく、全く味がしないこともあった。
抗癌剤は4時間ほどかかるのでキャリーは一度帰って、終わる頃また来てくれた。それもありがたかったし、同じ話題の話をできる友人が居たことは精神的にすごく楽だった。
日本の夫が食品や雑誌ビデオなどを送ってくれて、すごく嬉しかった。
引越業者が来て箱詰め中だそうだが、その合間に必要な物を分けておいてくれた。ありがたい。 ここは自分の家ではなく、荷物も最小限しか持ってきていなかったので、自分のものが少しでも手元にあると気持ちがとても違うものだ。
夫と息子は日本だが、母が来てくれていた。2回めの抗癌剤のころだった。
来てすぐに大げんかをした。母は思ったことを何でも言ってしまう人で悪気はないのはわかっているが、こういう精神が安定していない時には受け止められないのだった。抗癌剤中に興奮したので心臓がぶるんと震えて止まるかと思った。
状況をなかなかわかってくれなかった。白血球がすごく減っているので、気をつけなければならないだけど、アメリカ式の使いにくいシャワーを浴びたくないと言うので、困ってしまった。
ただ一度したケンカ以来気を使ってくれている。 話をしていると、気分も紛れてくる。
母が来てすぐの頃に「日本に帰りたい、どうせ死ぬなら日本で死にたい」と言ってしまい泣かせてしまった。 そしておしゃれが好きだった私をいつも褒めてくれていたので、丸坊主の頭を見るのがとてもつらそうだ。
やっと顔を見て「かわいいよ」と言ってくれたのだが泣きだしてしまった。 嘘をつくのが苦手なのだ。
もう一人の母、夫のお母さんも毎日のように電話をくれていた。 多くの人に支えられているのだと感じた。
見えてきたことがたくさんある。
2人の母と中学校からの親友は特に心配して電話をよくかけてくれた。母は日本から来てくれているし、夫ママも1ヶ月後くらいに来てくれる予定になっていた。
知り合いも本や雑誌や食品を送ってくれたり、カードやお見舞金をを頂いたりもした。
離れていった人もいた。元小学校の関係者、いわゆるママ友と呼ばれる人たちなどだ。
打ち明けるのは勇気がいるけれど急な引っ越しで言わないわけにはいかなかった。
こういう重い病気にかかると、誰が本当に気にかけてくれているのかがよくわかる。離れていった人たちのことは気にしないようにしようと後から思ったが、その当時は精神的にきつかった。
見えないものがあれこれと見えてくるのだけど、今まで目をつぶって見ないようにして来たこともたくさんあるんだなと思った。
優しい人の心に触れると嬉しくなるし元気が出てくる。 特に親友の明るい大きな声を聞くと元気がもりもりと出てくる。 どれほど助けられたかわからない。
人は沢山の人に支えられているのだと、病気をして初めてわかったのかもしれない。
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