2017年9月29日金曜日

放射線治療






放射線治療

 8月の終わり。ついに放射線治療が始まった。
ものすごく簡単に言ってしまうと、残っている可能性のある癌細胞を放射線で(焼いてしまう)治療だ。

 放射線は大好きなドクターSなので会えるのが楽しみだった。

 一日目なので写真を撮り、放射線の位置を決めるのに1時間かかった。 ずっと裸なので寒くなってしまった。左腕も上げっぱなしで痛い。 胸に直接マジックでたくさん線を引かれた。

 それだけでも驚いたのだが、なんと放射線を当てるしるしを小さな点をタトゥーで入れた。 3つの点。ちくりと痛みがあった。

 日本の本には(マークを消さないでください)と書いてある。タトウーでマークというのはいかにもアメリカだと思った。

 ほくろよりも小さいが1つは今でも残っている。消す人もいるけれど、私はずっと取っておこうと思っ
た。なんだか誇らしいようなきがするのだ。

「しっかり焼かないとね、あなたの癌は結構攻撃的なのよ!」といって、なぜか私に怒る顔をする。 思わず笑ってしまった。 

 毎回何か面白いことを言ってくれる。 夫も息子もこの先生が大好きになった。
この放射線治療は33回続く。 SFに出てくるような白い大きな機械の中に入るのでなんだか怖い。

 なんと毎日これが続くのだ。
受付で名前を言い、服を脱いで紙のチョッキのようなものを着て用意をする。 技師が着て放射線の機械を操作する。 30分ほどだけど毎日なので大変だった。

 数回目ですでに疲労感がでてきた。 これは抗がん剤が残っているせいなのか、放射線のせいなのかわからなかった。 今度の副作用は腹痛だ。お腹をこわす。

 最初は痛くもかゆくもないので喜んだのだが、回数を重ねるうちに日焼けのようになり、そのうちやけどのようになった。
治っていないがたがたな切り傷の上からやけど。 もう本当にうんざりだった。
めげそうになった時は、胸の中に残っている癌も焼けてすごいダメージなんだ、と思うことにした。




9月に入っていた。ハワイに来て6ヶ月間ずっと治療をしている。
家を引っ越すことが出来た。 息子は地元の小学校に通うことが出来た。
そして放射線治療も始まった。

 だんだん抗癌剤が抜けてきたようだ。 髪の毛はまだフワフワの産毛だ。 眉毛のあった場所がうっすら青くなってきた。 それから嬉しいのは短い睫毛がプツプツと生えてきていた。 はじめて見た時は飛び上がるほど嬉しかった。睫毛のない目はなんとも言えず、奇妙だ。

 私のDNAはここに眉毛が睫毛が生えていたことを覚えていてくれた。嬉しさと同時になんだか神秘というか、不思議な気もした。
病気をする前は髪を切ったら伸びる、眉毛を抜いたら生えるということが当たり前だと思っていた。でも当たり前だと思っていたことは実はすごく複雑な身体の中のしくみなのだと気がついた。


 毎日6時半に起きてランチを作り、朝食を作り息子を送り出し放射線治療に行く日々だった。毎日放射線があるので、ほぼ同じような毎日だ。

 10回目頃からかなり疲れが出てきた。 足の痛みはなくなったが手足はまだしびれていた。抗癌剤はなかなかしつこく身体の中に居座っていた。

 ファーストフードも相変わらず多かったが、家で作るときはなるべく健康的にしようと思っていたが、それでも食材に限りがあるので洋食中心になってしまう。
肉が多いのでなるべくサーモンなどを買ったり、煮物ができなくてもせめて温野菜をとブロッコリーやアスパラガスを毎回食べていた。

 息子の精神状態も安定してきた。 毎日宿題を見て、学校の話をしている。 ちゃんと話を聞いてあげられる母親でいたいと思う。

 ある日放射線が終わってドクターと話しをしていたら抗がん剤の部屋から呼び出しを受けた。何事かと思ったら新しい抗がん室に患者の手形を押すのだという。 

 私とキャリーは手に平にカラフルなペンキを塗られて手形を塗られる。 何の記念もなかったので嬉しかった。 奥の方にペタッと手形を押して日本語でありがとう。と書いた。キャリーは何か英語で書いていた。 最初は少なかった手形が行くたびに多くなっていって、壁一面の手形は正直不気味だなと思った。 一通り見渡すと胸の型を押している人までいた。



 放射線治療でしょっちゅう病院へ行っていたのでキャンサーサバイバーの会に顔を出して見た。

 手術が終わってすぐの頃に行ってみたのだが、どうしても(サバイバー)という気持ちになれずに続けることが出来なかったのだ。 自己紹介をするのだが、皆私よりもステージが低いようなきがして「だからサバイバーなんじゃないの?」とふてくされたことも会った。

 キャリーもあんなに泣いていたけれどステージ1だっだ。抗がん剤は4回だけで放射線もなしだ。彼女のために喜ぶべきなのに

 「そんなに軽いんだ」とショックを受ける自分がいた。
誰かと比べてもしかたがないことはわかっていたけれど、いつも自分よりも(悪い乳がん)でも生きている人を探していた。

 放射線治療は途中まで、痛くも痒くもなく、同じことの繰り返しだった。
だいたい朝息子を学校に送って行ってから病院へ行く。受付で名前をいい、着替えて放射線室へ。寝たまま左腕を伸ばして白い大きな機械を通る。

 20回を超える頃から副作用も強くなってきた。 だるさと腹痛だ。 それから肌もどんどん焼けてきた。 手術の痕を中心に四角く黒くなってくる。

「いい感じにトーストになってるわ~」とドクターSは笑う。 
「ちょっと痛痒くなってきました」
「うん、やけどと同じだからね。塗り薬だすわ」
このドクターとのアポイントメントは楽しみだった。毎回夫と笑いながら部屋を出ていけた。どれだけ助けられたわからない。 息子とも話を合わせてくれて、本を貸したりもしていた。
「この本すごくおもしろいよ、貸してあげるね」なんて言ってる。 ドクターも
「わあ、うれしい! ねえナルニアって知ってる?」
「ダッドが読んでくれてたことある!好き!」
「私もすごく好きなの。お礼にビデオあげるよ、古いのだけどね」と棚から出して渡してる。 

 ドクターSの大きい暖かいハートは皆の傷を癒していった。


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