2017年9月29日金曜日

はじめに


アルファポリス第十回エッセイブログコンテスト特別賞をいただきました。

応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。 





 14年前にステージ3Cという末期に近い進行性の乳がんになりました。

 当時の5年生存率は50%、10年生存率は20%という厳しいものでした。(注14年前のアメリカの生存率です。今では医療も発達してとても高いものになっています)

 在日基地では治療ができずにハワイでの闘病生活となりました。美しいハワイで辛い治療に苦しみ悩み泣きわめいたこともありました。

 記録を残したいと思い当時ノートを病室に持ち込んでは克明に記録しました。中には何を書いているかわからないページもあり、自分のことながら乳がんとの戦いの厳しさを感じました。

 私が今ここにいられるのはもちろん治療のおかげでもありますが、夫と息子に支えられたからだと思っています。家族に心から感謝を捧げます。





 乳がんが増えています。

 早期発見の大切さを伝えたい。それから癌になってしまっても、絶望ばかりじゃなく、希望もあるということを伝えたくエッセイに残すことにしました。

 エッセイ形式で書いたものですが、ブログにまとめたので、順番は最初からになっています。もちろん全部実話ですが、名前はイニシャルに変えてあります。

 それから会話はほぼ英語なのですが、日本語に変えて書いてあります。

 かなり壮絶で重い内容になっていますが、乳がん治療は素晴らしく進歩しています。これは14年前の記録なので今とはかなり違った治療になっていると思います。

最近「がんは治療するな」とか「これだけで治る」といういわゆるとんでも本が多く出版されています。残念ながら(これだけで治る)薬はまだ発明されていません。闘病中の方はどうか恐れずに標準治療をして欲しいと思います。


治療は苦しかったですが、生きています。


生きている素晴らしさを毎日噛みしめています。

悲しい思いをする人が一人でも減りますようにと思いを込めて……。


14年前のハワイから。




悪夢のはじまり

2003年3月

 左胸の中に大きな塊があるのは気がついていた。

 奥の方からズンズンと突き上げるような鈍痛もあった。

 当時癌は痛くないと一般に言われていたので、例えば乳房の中の乳管が母乳で詰まる乳腺症のようなものだと思っていた。乳腺炎にかかったことがあり、その時の感触と痛みにそっくりだった。 なので「またか」と軽く考えていた。 




 

 当時、私とアメリカ空軍人の夫と息子は在日基地の中で暮らしていた。

 アイダホ州から引っ越してきて1年と少し。息子はまだ8歳で基地内の小学校に通っていた。私はその学校の通訳や書類整理などのボランティアを毎日のようにしていた。そして軍人でこの基地に勤める夫は出張のために数ヶ月家を開けていた。

 
 痛みはいつまでたっても収まらず、だんだん心配になってきた私は重い腰を上げてY基地の中の病院へ検査のために行ってみた。

ここのトップクラスの女医は難しい顔をしながら胸の触診をしていた。

 「乳がんにしては大きすぎるわ、乳がんではないと思う。大きな脂肪の塊ね、大きすぎる」と良った。

 「違うとは思うけど念の為にマンモグラフィーは受けてね」と言われた。マンモグラフィーとはアクリル版で胸を可能な限り平たくつぶしてレントゲン撮影をすることだ。

「良かった、癌じゃないんだ」とすっかり安心してしまい、モンモグラフィー検査を受けに行ったのは日にちが合わなかったり、機械が壊れていたりしていたため、うんと後になってしまった。






 

 マンモグラフィーの予約をボランティアをするためにキャンセルしたこともあった。学校の遠足で通訳をして欲しいという理由で。

 今考えるとバカなことをしたものだが、この時は医者の「キャンサーではないと思う」という言葉を信じきっていたためだ。

 約4ヶ月後、夫が帰ってきたので一緒に病院へ行きマンモグラフィーをすることになった。検査室でアクリル板でギュッと胸を潰されてレントン写真を撮る。これが痛い検査のために行かない人も多いと聞いた。

フィルムを見た技師の顔色が変わった。


「念の為にもう数枚とりますね、念のためだから」と繰り返す。
 
「なにか、悪いものなんでしょうか?」

「それは今からドクターが見て判断しますから、私は何も言えないんです」技師は私を見ないようにしているようだった。

 それからレントゲン技師はすぐにドクターを呼びに行った。フィルムを見た医者は

 「乳癌の疑いがあります」と、はっきりと言った。

 「もっと詳しい検査をしなければわかりませんが、高い確率だと思います」

 夫の顔色がみるみる真っ青になる。私は正直、信じられない気持ちのほうが強かった。健康で元気だ。体力もある。

「すぐに針の生体検査(バイオプシー)をしにハワイに飛んでもらいます、明日の金曜日にでも」と言った。検査のためにハワイにある陸軍T病院へすぐに行けという。

 Y基地には当時オンコロジーと呼ばれる腫瘍専門医がいなかったためだ。明日行けとはあまりにも急だ。

「そんなに急に行かなくてはいけないんでしょうか?」と聞くと一刻も早くという。そして私の顔を見て

 「残念です」と言った。 

 



 息子はまだ小学校2年生で、小学1年生の途中でアイダホ州から転校してきて、やっと慣れたところだった。白人しかいなかったアイダホと比べ日本人とのハーフが多いこの学校は息子にとっても嬉しかったと思う。やっと友だちもできてきたところだった。

 そして日曜日には誕生日パーティーを予定していた。金曜日に行けという医者にせめて日曜日のパーティーをさせて欲しいと月曜日のフライトになった。

 辛い数日だったがなるべく顔に出さないようにしていた。というよりも実感がわかなかったのだ。

 乳がん…? 私が?

 すごく元気で毎日のように学校のボランティアをして走り回っていた日々。何かの間違いではないのだろうか?

 夫のほうが落ち込んでいた。目を真っ赤にしてたが、私は最初本当に信じられなかったし、なんだか現実の話ではないような気がしていた。
 
 誕生日パーティーの前日、風船を膨らませ、飾り付けをした。当時子どもたちに流行っていて、毎日見ていた海のスポンジのキャラクタースポンジボブという漫画のピニャータ(中にキャンディーが入っているもの、叩いて壊す遊び)を作った。

 ダンボールに黄色の紙を貼っていく。本の表紙を見ながら顔を書いていく。

 飾り付けをし、プレゼントを包みながら

 「来年はどうなるのだろうか?もう誕生日パーティーをやってあげられないのだろうか?」そう思うと、急に悲しみに胸が締め付けられ、ピニャータのスポンジボブの顔の上に涙がポタポタと落ちた。

 いつも陽気な黄色の漫画のキャラクターも泣いているように見えた。







 パーティーにはたくさんのお友達が来てくれて楽しい一日を過ごせた。この日はおもいっきり明るく振る舞った。いつもと同じに、おもしろいママのままで。
急に学校を休まされハワイに行くと言われた息子は少し泣いた。

「どうして?どうしてハワイに行くの?」

「大切なことを調べに行くの、ここではできないことなの。でもすぐに帰れるかもしれない、まだ何もわからないの」と説明する。
 
 「乳がんではなかったと帰ってくる人もたくさんいますよ」というドクターの一言だけが希望だった。

 3日。月曜日の夜のユナイテッドの便に乗るためにお昼のバスに乗り込む。Y基地から成田まで出ている直通バスだ。夜ほとんど眠れなかったので2時間ほどのドライブの間ウトウトする。 

 成田空港での待ち時間は長かったがあえて本や雑誌も数冊しか買わなかった。 洋服も1週間分パックしただけだった。

 「きっと何かの間違いだから、日本にすぐ帰るなら荷物になるから。すぐにトンボ返りするに決まってる」そう信じたかったからだった。



 けれど、その日以来日本に住むことはもうなかった。





針をさして生体検査をする。


 時差があるので3日の午前中にハワイに着き、その足でT病院へ行く。ほとんど寝ていないのでふらふらだった。 

 日本時間ではもうすぐ4日の朝4時だったが、ハワイ時間では3日の朝9時だった。アラモレンタカーで車を借りてすぐに山の上にある病院を目指す。

 簡単な検査をしてからドクターと少し話をし、バイオプシー検査という長い針を刺す検査をすることになった。

 しこりはかなり大きく、すでに痛みがある。その痛みの真ん中に長い針を指すのだ。 ぶすっと刺された瞬間

 「うわあ~~痛い!!」と大声が出た。激痛だ 信じられない痛みなのに更にぐっぐっと奥へと針を差し込んでいく。 

 痛い痛い痛い。涙が頬を伝った。

 まるで拷問だ。

 検査でさえこんなに痛いのかと凹む。たった一本針を刺しただけで、と。

 刺されたところがズキズキ痛む。ランチ時間に病院に入っているロビンフッドというファーストフード店でミートボールサンドイッチを注文した。気持ち悪くなり2口ほどしか食べられなかった。










 外に出ると真っ青な空に椰子の木が揺れている。 

 3月の日本は寒かったので着過ぎで暑い。ハワイ気候は熱くなく寒くなく、いつも風が吹いている。頬に当たる風が気持ちよかった。

 山の上なので目が痛いほどの青い海が見える。 こんなに綺麗な場所でこんなつらい体験をするなんてと暗い気持ちになる。

 夕方オハナワイキキビレッジホテルにチェックインする。こじんまりした綺麗なホテルだった。テレビに有料でゲームがついていたので息子はそれで古いゲームをする。

 誕生日の日に親の都合で連れて来てしまった。

「ハワイに行きたくない、学校も休んで、どうして?」と沈んでいた。

 夜はD&B というレストラン付きの巨大ゲームセンターのようなところで食事をした。 ディナーにゲーム券がついていて、2階で遊べるようになっているところだ。

 食事もおいしく、色々なゲームがあり楽しかった。カジノのような雰囲気所だが、家族で楽しめる場所だ。

「わあ、おいしい」と息子が笑顔になる。こんな顔をずっと見ていたいと思った。
まだ何もわからないのだから、うんと楽しもうよと夫と話をする。

「きっとなんでもないよね、帰れるよね」と笑った。

 明日、なんでもなくて日本へ帰れますようにと願いながら、いつものように楽しく3人で食事をした。

 そして、その希望は叶えられなかった。




告知


 翌朝 左胸は一面真っ青に内出血していた。

 まだズキズキと痛む。もしも癌だったらこんな真ん中に針を刺して広がったりしないんだろうか?と心配になる。 

 検査結果を聞くのは午後だった。名前を呼ばれて、息子も一緒に病室へ連れて行こうとした。するとナースはちょっと困った顔になり

 「息子さんはここで待ってたほうが良いわ」と言った。 

 夫の顔色が変わった。この一言で、もう乳がんが決定したようなものだ。

 長い廊下に緑色で進路のテープが貼ってあった。

 まるで死刑台への道標のようだ。迎えに来た看護婦は死神に見える。

 トボトボと後ろをついて歩きながら、嫌な空気の部屋に入っていく。





 

 「残念ですが、乳がんです。3箇所あります。 一番大きい物は4センチを超えています。リンパ腺にも転移している可能性があります」と言われた。

 胸の塊は大きな脂肪ではなく、大きな癌だったのだ。

 あまりのショックで頭が真っ白になり、半分以上何を言っているのか聞き取れなかった。 実際に知らない単語もあった。

キモセラピーもします。と言われなんだろうと思ったら抗癌剤の化学治療の事だった。

乳房を取る手術をする。

形成手術はできる。

抗癌剤をする。

放射線治療をする。

 おおまかに覚えているのはこれくらいで、いろいろ説明をしていたが、ぼんやりと何を言っているんだろうか?と考えていた。

 この時のことは、あまり良く覚えていない。頭のなかで(乳がん)という言葉がグルグル回っていた。

「やっぱりそうだった。そうじゃないと信じたかったのに、ねえどうしよう、これからどうしたらいいの」と廊下で号泣した。



 
 夫も私も泣いたが、待合室に戻る前に涙を拭いた。

「長いよ!ママもダッドも一緒に行っちゃって!」とふくれる息子に

「ごめん、ごめん。じゃあこれからどこか行こうか? 水族館好きでしょう?」

「わ~やった~!」

 ゲーム機をぱたんと閉じて、椅子からぴょんと飛び降りた。床に足さえついていないのだ。まだこんなに小さいのだ。

 まだ何も知らない息子をワイキキの小さい水族館に連れて行った。

 喜ぶ息子の顔を見て涙がでる。

 まだ小さい、もみじのような手を握って涙がでる。息子の手はまだこんなに小さいんだ。 

 かわいい子供を残して死ねないと思う。一日中助かるのかどうかばかり考えていた。
すごく元気で具合も悪くないのに、そんな恐ろしい病気にかかっているとは。

 乳がんが治ったら同じ病気で苦しんでいる人のために何かをしたいと思った。
絶望の淵からでも人は立ち直れるのだと信じたかった。

 告知の日、この時が一番つらく苦しい日だと思っていた。

 でもそれはまだ始まりにすぎなかったのだ。




希望をくれた放射線医 大人になった息子が見たい!!


 翌日の予約の時に専属の看護師に生きられる確率のことを聞いた。

 「一般的にだけど、もしもステージ3になっているなら、そしてリンパ腺に転移しているなら、5年間の生存率は60%位ね」と言われた。(注 いまはもっと高いです)

 思っていたよりも低い数字が凄くショックで頭がぐらっとした。もっと高いと思っていたので60という数字がグルグル頭のなかで回った。

 5年後に100人のうち40人は亡くなってしまうのか、と絶望した。 

 このあと病理検査でもっと低い生存率になるなんて、この時は考えもしなかった。




 抗癌剤もつらそうだ。3週間に1回の治療を4回以上。 手術の直後から始められないそうなので、治療には全部で6ヶ月はかかるそうだ。

 6ヶ月。ここで治療しなければいけないのなら、これからのことを考えなければいけなかった。

 私だけが1人残るのか、職場を変えてもらい、家族で引っ越しするのかを決めなくてはいけない。どちらにしても息子に説明しなければいけない。

 3日にハワイに来て以来、泣いていない日はなかった。


▲ ▲ ▲

 
 翌日、放射線科のドクターSに会った。

 とても優しく面白い年配の女性だった。目の前で泣いていた私に、治療の話よりも今までの患者の話をしてくれた。

「腫瘍が10センチもあったのよ、10センチよ!75歳の女性よ。リンパ腺にもすごく転移していたの。その人はもう死ぬって言ってたのよ、でもね、なーんと7年前よ。今でもピンピンしてるわ」とワハハと笑う。

 「だからね、誰にもわからないのよ。ガンってそういう病気よ。え?こんな悪いステージの人が?という人が長生きしたりするんだから!」

 その後のステージの説明と放射線治療の説明の後に

 「私は……死ぬのですか?」と思わず聞いた時に

 Yes!と大きい声で言ったので驚いて顔を上げた。

 「でもね、99歳位でよ。孫にたくさん囲まれてよ。その頃私はとっくにあっちの世界に行ってるから、待ってるわ」と言ってガハハと笑う。




 その瞬間どっと涙があふれた。 こんなに嬉しい言葉を聞いたことはなかった。

アメリカの医者は「だいじょうぶ」とか「生きられる」と絶対に言わない。裁判の国だからだ。(大丈夫)でなかった場合訴えられるからだ。

でもこの医者は「99歳位で孫に囲まれてからにしなさい」と言ってくれた。そして


「外で待ってるあの子!あんなにかわいい子供を残して死ねないでしょう?そうだ、孫を抱っこするのをこれからの目標にしなさい」と言っくれた。 

 一生忘れられない言葉だ。希望が生まれた瞬間だった。

 絶対に生き延びたい。

 昨日も今日も泣いていた息子。まだ小さいこの子を置いて行くなんてできない。



中学生になった息子が見たい。

高校生になった息子が見たい。

大人になった息子が見たい。



 成長の過程が見られないかもと思った瞬間が一番の恐怖だった。親としてこれほど辛いことはない。

ドクターSと出会えたことで気持ちが大きく変わった。きっと大丈夫だと自分に言い聞かせていた。




抗がん剤の前にウイッグををオーダーした


この日は形成外科医のドクターHと会った。 


  乳房の再建手術2つの方法があり人工物のインプラントを入れる同時再建、お腹の脂肪と筋肉を使う自家再建だそうだ。

 お腹の脂肪をとってもらえるのは嬉しいけれど、長い時間がかかるそうだ。

 傷が治ってからから乳房の皮膚を切り取って乳首を作り、その上にはタトゥーで色を入れるという。 そうすると約1年以上かかるらしい。

 正直まだ再建のことなど考えられない。

 それでもこの病院は外科医、腫瘍科医、放射線医、整形外科医の4人が1人の患者につく。ミーティングも4人で行うそうだ。なので、整形外科医のアポも度々ある。 

 最近の抗癌剤では吐き気は抑えられるそうだが髪はほとんどの人が抜けるという。

 抜け始める前にウイッグをオーダーすることになった。



 
 アラモアナショッピングセンターに行った。ウイッグも扱っているヘヤーサロンでいろいろ被って試してみる。 

 明るい色に染めていたので黒髪のものは違和感があった。栗色のバング付きのものに決めた。いいものが見つかってハワイに来てはじめて嬉しくなった。

 ドクターSとの話でとても楽になった。前向きに前向きに考えよう、きっとだいじょうぶだ。

 ウイッグをオーダーしたあと、必要な物を見て回った。

 買い物は辛くはなかったが、アラモアナにショッピングに来ているツアー客は皆楽しそうで、綺麗な人ばかりだ。
嬉しそうで、キラキラ輝いている。




 この中で数日前に乳がんの告知されて、抗癌剤でハゲになるからウイッグを選んでいのなんて私くらいなんだろうなとふと思う。

 眉毛もまつげも抜けるという。 

 消えにくいアイブロウペンシルも購入した。Narsのもので16ドル。思わず「高いかな、無駄になるかもしれないのに」と思ってしまう自分がいた。そしてすぐに「無駄になんかしたくない!」と気持ちを引き締めた。


 もうすぐ手術の予定日もわかるだろう。

 怖い、大きな手術だ。6時間もかかるという。
違うふうに考えよう。これは整形手術なんだと。お腹の脂肪を取って胸も綺麗に大きくお直しをするだけだ、と。
そう考えると少し気持ちが楽になる。 

 なんでもなくて胸やお腹を整形手術する人がこの世にはたくさんいるのだから、と。
そして、髪の毛も抜けてしまうのなら、その間だけでもショートヘヤーを楽しもうと思った。ヘヤーカタログを買った。

 買い物に行ったのは週末で、月曜日には腫瘍専門医の予約だ。抗癌剤のスペシャリストだそうだ。吐き気と脱毛の質問をしようと思う。


☆最初に買ったウイッグ。今見ると派手ですね。病院のセラピードッグと一緒に。
   

腫瘍専門医と会う


 腫瘍専門医のドクターBの予約が入っていた。 11時のアポで名前を呼ばれたのは12時だった。

 このドクターは高齢男性で表情も言い方もとにかく暗かった。

 放射線医と話してやっと楽になった気持ちがまた沈む。そして医学生が一緒に居て訓練だとかでこれまでの経過を聞かれた。

 「……え~リンパ腺には転移していると思うけれど、あ~全部取ると腕が腫れる、一生注意しなければならないよ……」とボソボソと話す。会っていると具合が悪くなりそうだった。質問も出てこない。

 病院側は最高のドクターだという。
本当だろうか?部屋もぐちゃぐちゃで書類もあちこちにある。時間にもルーズだ。何よりも患者の気持ちを暗くさせるのは良いドクターといえるだろうか?どんどん気が重くなっていった。

 手術は1週間後くらいだ。

 怖い、すごく怖い。手術まではせめて息子に楽しい思いをさせたいと思い動物園に行った。 

 3人で歩く動物園。まるで何もかもが普通でバケーションに来ているような気持ちになる。息子も楽しそうだ。

 「キリンがいるよ~!」と汗をかいて嬉しそうな真っ赤な顔で走ってくる。また涙が出そうになる。夫が手をギュッと握ってくれた。




 ホテルの部屋は狭いなりに快適だったけど、自分のコンピューターがなかった。今のようなノートパソコンやタブレットもなくホテルのロビーに有料のコンピューターが置いてあった。これで10分いくらというようにネット接続できるのだけど、日本語が出てこない。

 日本語で情報が読みたかった。もっと本を買って来るべきだった。乳がん情報などの。

 「なんでもない、帰れる」と思いこみたくて、わざと探してこなかったのだった。手術の方法など聞き取れないことも多かった。

 手術後の運動のフィジカル・エクササイズの予約もあった。

 手術後は腕が上がらなくなるそうなので体操の仕方などを習う。

 その後またショックな話を聞いた。私の場合は再建手術は乳がん手術をした後のほうが良いと言われた。同時再建ではなく。 

 「きちんと全部治してから、それから1年後くらいのほうが良いと思う」と。それほどのリスクなのかと大ショックだった。

 「胸の中に腫瘍がいくつかあってリンパにも転移していると思うし、それから石灰化している所もあるし、とにかく治療が先ね」と。

 毎回のことだがやはり泣く。



息子への告知と手術用意


 もうすぐショートになる長い髪、もうすぐ1つなくなる胸。

 毎日のように病院のアポイントメントがある。終わった後はあちこちにでかけた。手術まではせめて親子3人でハワイを楽しみたかった。

 青い空の下のショッピングも楽しかった。 それがたとえ手術後の胸のない状態を考えながらの洋服の買い物でも。 

 またこうやって買い物を楽しみたい。3年後も10年後も。そう考えていた。

 手術後のことを考えて脱ぎ着が簡単な洋服、胸を締め付けないもの。コットン製のブラジャー。入院用の足が楽なサンダルなど買った。

 手術後は寝ている日が多いのだからとかわいいパジャマを買った。あのバースデーの時に作ったキャラクターのものを。スポンジ君の顔がこれでもかと付いている。息子はそれを見て

 「わあ!ママがこれを着るの?」と喜んでいる。

 「そうだよ、なははは」とキャラクターの真似をすると、息子は大笑いしている。

 息子にもあれこれゲームなどを買った。
こんな時でも、いや、こんな時だからこそ、買い物は楽しかった。

 手術予定日は17日になった。3日に来ているので2週間後だ。

 2週間の間、出かけたり買い物をしたりした。病院でいるもの、退院してからいるもの。待っている間の2週間は長かった。その間に癌が大きくなっていくような気がしたからだ。
命があれば良いと思うけれど、胸がなくなるのはやはりとても辛かった。

 手術の前に息子に説明をした。

小学生2年生だった息子に本来なら詳しく説明したくはなった。だがこのまま長期滞在となるとそうはいかなくなる。 毎日のように病院に一緒に行っていたし、なにか変だともちろん感じていただろう。

 「あのね、よく聞いてね。ママは身体の中に悪いものが出来たの。だからそれを取っちゃうね。先生が手術をするからね」と言うと、

 「え~手術?やだ、こわいよ~」とわんわん泣きだした。

 「手術をしないと、うんと悪くなっちゃうの。 ママが元気な方が良いよね?またいっぱい遊べるよ。だから悪いところ取っちゃうんだよ。それから時間もかかるから、ハワイに長くいるかもしれないの」

 「いやだ~」と大泣きの息子を見て涙が溢れそうになる。 

 夫が「ちょっとこっちでダッドとも話をしょうか」と連れて行く。

 夫の静かな声としゃくりあげる声が聞こえてくる。

 私は家族にこんなにつらい思いをさせていると思うと、また涙がこぼれた。

 



 手術前日

 手術直前に基地の中の施設へ移れることになった。
キッチンがついていて、寝室が分かれている部屋はありがたい。

 手術は18日に決まった。

 前日8時に麻酔医とのアポイントメントがあった。この日の血圧は上が98下が77。血液検査もする。

 手術に関しての注意なども聞く。真夜中過ぎから何も食べてはいけない。飲み物もだめだった。水さえも。 朝歯磨きをしてうがいをした水は残さず吐き出すこと、と言われた。

 アメリカらしいと思ったのはボディーピアスは全部外すことと書いてあったことだ。へそピアスが流行っていたので。他の部分にしている人もかなりいるのだろうと思った。
夜、1人で万が一に備えて夫と息子に手紙を書く。

夫には
「いつもサポートしてくれてどれだけ心強かったか、あなたがいなければ乗りきれなかった。本当にありがとう」と書いた。

息子には
「生まれてきてくれて本当に嬉しい。おとうさんのいうことをよく聞いてね、強く生きてね」と書いた。
どちらにも

 「心の底から愛していて、どれほど大事に思っているかわからない」と書いた。

 封をして机の引き出しの奥の方へいれておいた。

 この時ばかりは耐えられず号泣した。







左乳房全摘出手術


 手術当日

 7時に病院入り。
5時半に起きてシャワーだけしてきた。 ボディーローションなどは塗れない。顔もクリームも何も塗れないのでバリバリでかさかさだ。

 延命治療をどうするかというリビングウイルを書く。これはもしもの時の為の医療的な措置を書類にすること。

 意識が戻らない場合は蘇生措置をとるのか尊厳死を希望するのかどうかを明確にする。 手術前に書かされる遺書のようだ。
 
 悩んだが夫の意志に任せることにした。夫は医療関係者だ。きっと的確な判断ができるだろと思った。 
 
 それと日本の母のことも思った。もしものときは駆けつけてくれるのではないかと。その時まで装置をつけていて欲しいとも思った。せめてまだ暖かい娘に会いたいのではないか、と思ったのだ。





 紫色の色素を胸の乳管に入れてレントゲンも撮る。 

 CTスキャンのようなものをも1時間かかった。 ウトウト眠ってしまった。 お腹も空いていた。 

 当日はもう覚悟が決まっていたので、2週間前のような不安はなかった。

 裸の上から手術用の薄い布でできたガウンを着て待つ。この時間がとても長かった。朝から待って結局手術をしたのは夕方だった。
 
 待合室で看護師がプラスチックの腕輪の名前を確認する。いよいよ手術だ。

「じゃあ行ってくるね!だいじょうぶだよ!」と夫と息子に笑顔を向ける。ガラガラとベッドのまま移動させられる。

「麻酔薬いれますよ」と点滴から麻酔薬を注入される。
あっという間に世界が暗転した。




手術後 1日目の夜


 「麻酔薬をいれますよ」から

 「起きてください」まで一秒くらいしか建っていない感覚だったが実際には手術を終えて数時間が経っていた。
まだ目がはっきりと覚める前にガクガクと震えていた。

「気持ちが悪い」と叫び歯がガチガチと鳴り、足が震える。

 幾つもの顔が覗く、白黒だが時折強烈なフラッシュのような光が入る。

 バッバッと白い光。誰かの顔、手を握る誰かの手の感触。

 カモーン大丈夫ミセス?と誰かが呼んでいる。オーノーと誰かの声。

 息ができない。

 パニックになる。苦しい苦しい、もう一回息がしたい。この窒息しそうな瞬間はとても長かった。 

 この時多分喉に直接入れた管を抜いている時だったのだと思う。

 足が跳びはねるほど震えていた。そして、また意識を失った。




 その後また目が覚めた時には夫と息子がぼんやりと見えた。

 手術室からリカバリー室そして一般の部屋に戻ってきたらしい。

 大きな色とりどりのバラの花束とぬいぐるみとカードを持ってきてくれていた。嬉しかったが、その日はとても目を開けていられなかったので、そのまま、また暗闇に引きずり込まれた。 

 ハッと夜中何度か目が覚めた。隣の部屋がうるさい。それでも頭がふらふらして、ただただ眠い。目を閉じた瞬間、別の世界に行ってしまうようだった。

 痛み止めにモルヒネを使っていた。

 点滴につながっており、痛みのあるときはボタンを押すように言われていた。致死量が入らないようになっていたが、知らずに何回もボタンを押して注入して気分が悪くなっていった。


 吐き気が止まらない。何度も吐き気止めの薬をもらうがあまりきかなかった。 

 担当のナースは意地が悪く言い方がきつい人だった。 

 「お水をください」と言うと、面倒くさそうにプラスチックのコップを受け取リ、床に落とした。そのまま水を汲もうとするので

 「他のコップと取り替えるか、せめてゆすいでください」と言うと、チッと舌打ちをされた。

 夜中このナースに立ってトイレに行きなさいと言われる。

 「できません」と言うと「できるわよ、あなたが手術したのは足じゃないでしょう」という言い方をされた。

 それでも起きられない無理です。というと タライのようなものをお尻の下に入れて、横になったまましろ、という。それも出来ないというと1時間位そのままにされた。退院してからタライの後がミミズ腫れののように真っ赤に晴れていた

 どのくらい後か覚えていないが、ゆっくり起き上がり、一歩一歩あるいてトイレに向かう。3回ほど吐く。 吐くと言っても何もお腹に入っていないのだが。

 手術後で弱っているので言い返したりできないのがつらい。 ナースの仕事もきつのだろうと思うけれど、はじめての手術患者にもう少し優しくしてくれたら良いのにと思った。

 目を開けていられない、かと言って寝入っているわけではない。2時間おきに起こされる。血圧と体温のチェック。足には数分おきに膨らんでふくらはぎを圧迫する物をつけている。血栓予防のためだが、これもうるさい。

 ぐっすりと眠ったほうが回復するのではないかと起こされるたびに思った。



2日目

 朝はジュースとスープの朝食だったがとても食べられなかった。 
眠気と吐き気が同時に襲ってくる。起き上がるどころか、横を向くだけでも吐き気が襲ってくる。

 胸にはきつく晒のように包帯が巻いてあった。痛くて、熱い。

 ものすごく分厚い焼けただれた石版が載せられているような感じだ。
そっと触ってみると、感触もカチカチだった。平たく硬い。

 午前中、夫と息子が来てくれた。 小さいぬいぐるみを持って。嬉しくて、元気が出てくる。家族の愛情が一番の回復薬だった。
病院の中で売っている小さいぬいぐるみを手術や入院の度に買ってきてくれるようになった。



 吐き気もだいぶ止まってきたのでランチを食べてみる。
ランチと言ってもクリアビーフコンソメ、ゼリーを一口、グレープジュース一杯。力が湧いてきた。アイスティーにお砂糖を入れてもらって飲む。ものすごく回復していくのを感じた。食事の力はすごい。

 それ以来すっと立ちあがれるようになり、トイレにも歩いていける。
昨夜とは全く違う。1日でこれほど回復するものだろうか? 食事の大切さを改めて知る。

 夕食もチキンコンソメやゼリーそれからパイナップルジュース。完食出来た。
「固形のもの食べられそう?」と聞かれたので「もう食べられそう」と言うと、なんと肉が出てきたので驚いた。すごくアメリカらしいと思った。
 硬いご飯3口、肉1切れ、グリーンビーンズ2本パン一口を食べられた。それを記録しながら
「食べられるから明日は退院ね」といった。




3日目 退院

 まさか3日で退院できるとは思わずびっくりだ。

 手術前に買っておいたかぶるタイプのワンピースをなんとか着た。左腕は全く上がらない。 

 最初の日は吐き気がひどく足にまいて自動で膨らむサーキュレーションも嫌だった。なによりも2時間おきに起こされるので、家に早く帰りたかった。
ただ、帰るのは家ではなくホテルだ。入院直前にワイキキにあるホテルから基地の中の長期ステイの施設へ移ることが出来た。ここはキッチンも付いているので闘病にはこちらのほうがうんと良い。

 胸にはがっちり広い包帯が巻いてある。さらしのようだ。 

 胸の下からチューブが2本出ている。ここの先にプラスチックの容器がつていて、体液が貯まるようになっている。これを毎日記録して中身を捨てる。
夫が食事の用意から薬、息子の世話と全部してくれていた。


▲  ▲  ▲


 帰った日の夕食にご飯を炊いてくれて味噌汁を作ってくれてことは忘れられない。やはり私のソウルフードだ。あっという間に元気になる。
そして息子に勉強を教えたり、夜はルーンスケープというオンラインゲームを一緒にやっていた。 コンピューターの中のキャラクターだが、親子一緒に冒険をしていた。

 手術や入院の間に親子の絆が強くなっている感じがした。いろいろな話をしたのだと思う。夫はどう説明したのだろうか?

 私はベッドでテレビを見たりして過ごす。うつらうつらしては、はっと目が覚める。夜まとめて眠れなかった。

 Oxycodoneオクシコディーンという強い痛み止めを4,5時間おきに飲んでいた。
1日5回位だったが朝が一番痛く2錠飲んだ時は全身がしびれてうまく息ができなかったので1錠にしていた。かなり強い薬なのだろうと思う。


▲  ▲  ▲  ▲  ▲


☆病院の一階にお見舞いの品を買うお店があり、手術の後目を開けたら大きな花束と可愛いぬいぐるみがありました。

喜んだ私を見て、息子は入院や手術のたびに買ってきてくれるようになりました。
さきほど出して並べたところです。
14年前が一気に戻ってきて涙が出そうになりました。


退院して初めて胸の傷を見る


 手術から数日後、病院ではじめて傷の検査をする。包帯をとって傷痕をはじめて見た。

 
 わかってはいた。

 わかってはいたけれど、あまりにもショックだった。

 胸があったところは脇の下まで長い傷跡が残り腫れている。黒い糸で縫われている。

 まっすぐに切れているだけかと思ったら、傷の上と下がすごく腫れている。特に上の部分の皮膚がボコボコだ。これは後で聞いたのだが再建を考えてできるだけ筋肉を残したのだという。

 よく(開いてみたら、かなり悪かった)とドラマや映画であるとおり、私の乳がんは4箇所あり、脇の下のリンパ線にもいくつも転移していて、さらに良くないとされている胸の中のリンパにも流れていた。

 胸骨すれすれにもあり、さらに全部は取り切れなかったのだと聞いた。それでも昔の大胸筋までとってしまう(ハルステッド法)という手術は手術跡がとてもひどく、なるべく筋肉を残してくれようとしたそうだ。


 真っ赤になっている傷はまだズキズキと痛む。下のチューブ用の2つの穴もすごく痛い。

 それから一面に塗られた黄色の消毒剤、赤い傷跡、内出血の青色。黒い縫い糸。ものすごい色だ。これほどひどいと思っていなかった。

 自分の傷跡を見られない人もいるという。 それでも私は辛いけれど、目をつぶる訳にはいかない。

 しっかり見つめて、病気と向きあおうと思った。


 それでもやはり涙がいつまでも止まらなかった。

 


 それにしても、こんなにも凹凸がありで縫い目も汚いのは想定外だった。

 この日、胸のあった場所の下からぶら下がっている体液排出用のチューブ2本を抜いた。

 
 これがものすごい激痛だった。

 今まで経験したことのない痛みだった。歯を抜くよりも、出産よりも痛かった。

 抜いた瞬間汗が吹き出す。ぐったりして大泣きした。

 長い針金を体内からズルズルと抜き出すような感じか。2本めが本当に辛かった。もう一回あの痛みを経験するのかと思うと倒れそうだった。

 なぜこれほど痛かったのか後からわかった。細菌感染をしていたのだ。

 指先でさえ傷口に菌が入ると赤くなりズキズキして痛むのに、かなり大きめの胸の穴2つだ。そこから長いチューブを引き出すのだから、痛いはずであった。 

 その夜、高熱がでた。 

 

感染症で入院




 胸の下に開いている2つのチューブの穴は赤く腫れている。夜熱が高かったが解熱剤を飲んで下がったので、様子を見ることにした。

 翌日、病院で検査。車から入り口まで歩くことが出来ずに車いすで病院に入る。

 チューブを抜いた穴を消毒して注射で麻酔をして長めの針を差し込んでの検査。中には菌が入り込んでなかったので再手術は避けられた。

 しかし2日後また高熱。39度まで上がり苦しくて涙がでるのだが、涙が熱湯のように熱く頬を伝った。こんなに苦しいのははじめてだ。

 また病院へ行くと、そのまま入院することになった。 点滴から抗生物質を注入しながら2日入院になった。

 
 入院までは毎日病院に通っていたのだが、その時の若い医者がとても失礼だった。


 「自分が見た限りノーマルだ。赤くなるのも痛いのもノーマルなんだよ、毎日毎日こられてもこっちの時間が大変なんだよ、腕から抗生物質入れたほうが早いから」という内容のことを非常に嫌な言い方で言った。

 Every single day(毎日毎日)と3回位言ったかもしれない。夫は怒って抗議した。

 「君の気持ちはわかるよ、でも君は医者じゃないだろう?」あまりにも失礼な言い方に夫は真っ赤になって怒っている。

 患者である私は倒れそうに具合が悪いのに、こういう言い方ができるなんて、医者である前に人間としてもどうなのだろう。

 若くて腕がいいと自惚れているのだろうなと思った、医者にとって大事なのは技術だと思うけれど人間性もとても大切だと思う。 言い方ひとつで楽になったり苦しくなったりする。それは、薬以上の効果だと思う。




 放射線科のドクターSはとても優しく、おもしろい。この人がいたから耐えられた。

 この入院や今回のすべてのことで人間に対する考え方、姿勢などが変わったと思う。
家族、そして友達の愛情もよくわかった。 見えなかった大切なものがたくさん見えるようになった。

 特に夫と息子がどれほど大事かと再確認できた。

 夫は心から心配して細かくケアしてくれる。優しい言葉で慰めてくれたり、時には叱咤激励もしてくれる。
食事を作り、息子の世話もし、私の看護もだ。感謝してもしきれない。

そして、息子の一挙一動に心を奪われる。寂しさと怖さを隠して私の前でおどけてみせる。ときに耐えられず号泣する。

 8歳の子供ってこれほど素晴らしく美しいのかと驚く。何も見ていなかった自分を叱りつけたい気分だった。

 

     胸や髪の毛を失っても家族の愛は絶対に失えない。








 病院の夜はあまりにもうるさくて眠れない。それに1,2時間おきに誰かがやってくる、人の声、キャスターをガラガラと押す音。
午前中もうつらうつらと眠った。

 夫と息子が来てくれた。すごく嬉しかったのだが、この病室は特別室なようで、意地悪なナースがやってきた。

 「12歳以下の子供が部屋に入るの禁止よ」という。

 「このサインに書いてあるでしょう!」ときつい言い方をされた。

 がっかりして皆で待合室に行く。そこへ違うナースが来てくれた。息子にジュースとゼリーを持ってきてくれた。

 「お母さんと一緒に食べたら?一緒にいたいよねえ」と息子に優しく声をかけてくれる。息子も嬉しくなってすぐに自分のバッグを見せて「これいいでしょう?ピカチューのバッグ」「あら~私も欲しいなあいいねえ」と話を合わせてくれている。

 「ありがとう」と伝えると、

 「家族はいっしょにいたいわよね、わかってるわ」とウインクをした。

 こういう優しさが心にしみる。 私もこういう人になりたいと思う。 人の気持ちがわかるということは素晴らしいことだと思う。

 待合室で皆で病院食を食べた。 

 まずいミートローフとミックスベジタブルも3人で食べると美味しかった。 大切な私の家族。

 翌日、現在の家である施設へ帰れた。 

 一気に具合が良くなる。 シャワーをしてすごくすっきりした。 

 病院はやはりいやだ。 血圧を図るのに起こされることと、それからこれはきっと日本とは違うのだと思うけれど患者がうるさすぎるのだ。 文句を言ったリ大騒ぎしたり、調子の良い人は話しかけてきて止まらないなど静かな人がいない。

 感染して治りかけている箇所が痛痒かったので押すと出血した。 

 その後この穴から大量に体液の混じった薄い血がでてくる。ガーゼを何回も何回もとり変えた。

悪かった病理検査の結果と息子の精神状態

 

 手術の後の胸の組織を検査した結果が出た。一番大きい腫瘍が4、5センチ。 脇のリンパに2つ、胸のリンパに一つ。そして胸の中に出来かけている癌もあるらしい。

 これから抗癌剤で治療していくことになる。自分が思っているよりも良かったが、それでも4、5センチとは……みかんぐらいの大きさだ。

 そんなに大きな癌だったから触診で見逃されたのだった。

 乳がんを触診で発見するときは(小豆大)が多いという。まさか(みかん)のような塊が癌腫瘍だったなんて、ベテランの医者も考えられなかったらしい。

 そしてまことしやかにまかり通っていた(癌は痛くない)というのも嘘だった。

 ズキズキと痛んでいた。乳腺炎になったことがあるのだが、その痛みにそっくりだった。触った感じも似ていた。 母乳なんてとっくに出ていなかったのに、なぜだろうと思っていた。





 

 6ヶ月以上かかる治療のため、夫はハワイの基地へ転勤することになった。仕事に空きがあったのはラッキーだったと思う。 なんと上司として転勤してくる人も奥さんキャシーがY基地で乳がんになった人だった。 後からキャシーと私は友だちになリ、闘病中を支えあった。

 北のM在日基地から来ていた女性は、旦那さんの職種の空きがなく、ユタ州へ行くことになった。日本の基地に専門医がいなかったため、まずハワイに検査に来て、それから本国の基地に飛ばされる。

 私はできることなら日本に帰りたかった。 日本へ帰ったのは2012年の始めだった。 それまで3年間アイダホ州の田舎に住んでいてノイローゼのようになっていた。 乳がんはここでのストレスではないかと密かに考えていた。

 アジア人はほとんどいない地区で保守的な場所だった。悲しい思いや、つらい思いをした。 別れてでも日本に帰りたいと思った。 そうやって頑張った3年間、やっと帰れた日本でこんどは癌が発覚したのだった。日本には1年少ししかいられなかった。






◆ ◆ ◆

 
 息子の精神状態

 

 引っ越すことが決まったが、荷造りに日本へ帰ることが出来ない。 手術をしてから3週間が経っていた。 もうすぐ抗癌剤が始まる。 引っ越しのために夫が息子を連れて日本へ帰ることになった。

 息子の学校の転入手続きもしなければいけない。日本のY基地の学校に一年生から入り、やっと慣れたところだったのに、またアメリカの学校に転校することになってしまった。

 この頃から少しづつ息子の精神状態が不安定になっていった。 住んでいる場所にいたら自分の病状は隠していたかもしれない。しかしハワイに何ヶ月も連れて行くとなると隠すことは出来ない。

 病気のことを話し、手術のことや治療のことを話した。

 そして病院での包帯を巻かれた弱っている母親を何回も見て、ホテルでもずっとベッドで寝ている以前と全く違う母親を見て、不安と恐怖に押しつぶされそうだったのだろう。急に泣きだすことも多くなっていった。

 抗癌剤の説明もしたのだが髪の毛が抜けるというところで号泣した。

「ママが変わったら嫌だよ。変わらないで! I like the way you are!(そのままが好きなんだ)」と大泣きした。

「ママの外見は少し変わるかもしれないの、でも中身は同じだよ。同じハートの同じママだよI love you の気持ちはどんなことがあっても変わらないよ。いつも、いつまでも大好きだよ」と言った。

 今度は「うれしい」と大泣きした。




 抱きしめて 同じ言葉を繰り返した。
 
 何度も悪夢や悪い想像をしたと泣いていた息子。

 「ママがいなくなる、小さくなって消えちゃうの」と泣きじゃくる。

 この頃から息子の精神状態が不安定になっていく。 情緒不安定で赤ちゃん返りのようなこともあった。 
 
 手続きが終わり、やっと編入した基地の中の小学校の教室に入れなかった。

 一歩入ったら大泣きし、ついていった夫は帰れずに一日中ずっといたこともあった。
授業を諦め、毎朝学校のカウンセラーのところへ行くことになった。アメリカの小学校には心理カウンセラーがいて、精神的な相談などができる。

 カウンセラーは毎朝なにか楽しいゲームを考えて遊んでくれていた。それでもやはり帰りたいと泣く日々が続いた。 

 困った私たちは考えた末に家で勉強を教えるホームスクールに変更することにした。
ずっと後になって、この時の話をしたのだが

 「学校に行っている間にママになにかあって、会えなかった、間に合わなかった、というのがすごく怖かったんだ」と言っていた。 


 もう少し子供の気持ちをわかってあげられたら良かった、と思った。

また発見された癌 2度めの手術




 引っ越すために借家を見て回っていた。家を購入することも視野に入れていた。アメリカでは家は買い換えていくのが普通なので、軍の仕事の期限の3年しかいないとしても売却していける。
気にいった家があり、2人で喜ぶ。

 ハワイに住む。家を買う。

 病気でなければどれほど嬉しいことかと思う。



 抗癌剤が始まる前にオンコロジー(腫瘍科)のドクターとのアポイントメントがあった。 

 手術をした側の脇の下も触診している。なにかグリグリと指に当たる豆状のものがあるという。 その日はそのまま帰ってきたけれど翌日電話で

「手術をしたほうが良いと思う、取り出して病理検査ををした方がいい」と。

 手術はもうこりごりだ。早く薬の治療してほしい。また手術だと聞かされてショックで落ち込んだ。
やっと傷口の痛みも引いてきて、そろそろ抗癌剤だと思っていたのに。

「もう、いや。手術はもういやなの」やり切れない思い。ガチャガチャと音を立てて食器を洗った。全部割ってしまいたいような気持ちだっだ。

 くやしくて、そして怖い。 

 次の手術は麻酔方法もロコと呼ばれる軽いものだった。 眠ってしまうものだったが、部分麻酔のようで目覚めても気分も悪くなくすぐに帰ることも出来た。

 麻酔で手術はだいぶ違うものだと思った。
全摘手術の全身麻酔とは全く違う。目がさめて、その日にぴょんとベッドを降りて帰ることが出来た。

 手術の後も大きい絆創膏のようなものが貼ってあるだけで傷口も小さかった。 前回リンパ腺もかなり取ったと思っていたけれど、まだまだ残っていたのだった。この腫瘍は奥の方に隠れていたらしく見逃されていた。

 ショックなことに、、この腫瘍も悪性だった。 

 リンパ腺に転移していたガンであった。

 大きさは1センチにもなっていてパチンコ玉大だ。転移していたものがそれほど大きくなっていたなんて。この時も泣いた。 

 ポジティブに考えよう考えようとしているのに結果はいつも悪かったからだ。 今度こそ、大丈夫。今度こそなんでもないと思っているのに、また癌だった。 しかもこのリンパの数でステージ3になり、生存率などの%もぐんと低くなった。




 
 忘れられなかったのは

「リンパを取る手術をすると、リンパ浮腫と言ってむくむことがあるの、だから一生怪我は出来ないわよ。ガーデン仕事とかネイルサロンさえダメよ」とナースに言われ

「え??一生ですか??そんなに長く??」と聞いたら、なんとも言えない表情を浮かべて横をむいたことだ。その時に悟った。


 そうか、私の(一生)ってそんなに(長く)ないんだなと。 


 はっきりと言われたわけではないけれど、こういうちょっとした仕草や表情に傷つくことが時々あった。

 考えないようにしよう。 絶対に良くなりたい。 ボジティブな気持ちでいなければと思っていた。 

抗がん剤 吐き気と激しい疲労


 いよいよ抗癌剤が始まる。

 前日、血液検査とカウンセリングがあった。この時に(遺伝性の乳がん)かどうかの検査もした。この結果は陰性だったので一安心だ。 

 抗癌剤を受けるための部屋に9時に行く。 点滴のIVスタート。これはほとんど水分だ。一袋分点滴をして、吐き気止めの薬をもらった。

 午後からやっと抗癌剤が始まった。 使ったのはアドレアマイシン(Adriamycin)とシクロフォスミド(Cyclophosphamide)という薬だった。

 最初はアドレアマイシンを15分くらいかけて2本分注射で体内にいれていく。赤い液体だ。

 その後にシクロフォスミドをIVの袋につけて体内に取り込む。点滴を落とすのを早くすると鼻の奥がツーンと痛くなるので調整してもらう。午後には帰ることが出来た。




 その夜、夕方から倦怠感がはじまった。気持ち悪さとそれから、どんどん疲労感へ変わっていき、マラソンの後のような激しい疲れに変わった。

 手足のしびれと吐き気。思ったよりも苦しい。 夫はまたご飯を炊いて味噌汁を作ってくれた。冷凍のシュウマイも出してくれたが、それを食べて激しい胸焼けに悩まされた。

 翌日も夫はコーヒーを淹れ、トーストを焼いてくれた。食べてすぐに寝てしまった。だるいというよりも

 激しい疲労感だ。とにかく眠く、それから吐き気もある。飲んでいる薬もあまりにも多くて覚えられない。1日ふらふらしている。


 病院へ注射を打ちに行く。 抗癌剤治療は白血球が減るので、感染などを防ぐために白血球をあげる注射を打つ。10日分持って帰ってきた。

 夜眠れない、寝たり起きたりしている。それなのに眠い。

 夫の上司の奥さんキャリーの話を聞くと私よりもうんと軽そうだった。喜ぶべきところなのだが、正直自分だけが高いステージのような気がして落ち込む。

 気分も落ち気味で、食欲も落ちてきた。口の中の味が変わっている。何を食べても変な味がする。水も飲むたびに苦かったり甘かったりする。



 

 一週間経つとだいぶ気分も良くなってくる。 ちょっと出かけたり、簡単な家事ならできるようになる。私の場合は一週間は寝たきりになってしまい、腕も上げられないので、本を読む気にもならない。まるで人間ではなくなるような感覚だった。
 
 抗癌剤をしながら仕事をしているという人は本当にすごいと思う。



日本から母が来た。

 一回目の抗癌剤から一週間経った日に、母が日本から来てくれた。夫が空港まで迎えに行ってくれた。ドアを開けた途端

 「わあ、太ったねえ」と言う。 妹から「癌だから痩せてるかもしれないよ、絶対に痩せたねって言ったらダメだよ」と言われてきたらしく、痩せてなかったので思わず口から出たと言っていた。
 悪気はないのだがなんでも口から出てしまう人なのだった。

 はじめから手術や治療を見ていなかったので(前と変わらない娘)の病気をなかなか理解してくれなかった。昔と同じ調子だ。今思うと理解したくなかったのかもしれない。
 
 数日後、やはり口から飛び出した言葉から大げんかになった。母はいつもの様に軽口を叩くのだが肉体的にも精神的に参っている私には受け止められなかった。

 「何も言えない!もう帰りたい」といった母に私も大泣きして言い返して心臓がでんぐり返りそうになった。グリっと動き、バクバクが止まらず息がうまくできなくなった。抗がん剤中で、心臓が弱っていたのだった。

 その夜、夫は母と長い間話しをしてくれた。 今までとは違うこと。私がどんなふうに手術などを乗り越えてきたか。

 くなった娘の顔を見て「元気そう」だと勘違いしたようだった。実際には抗癌剤でむくんでいたのだが。 

 すごく元気だった娘が進行性の乳がんで生きられないかもしれないだなんて、絶対に認めたくなかったのだろうなと今なら思う。


 何気なく言ったジョークにも傷つくことなどを理解してくれた。感情のコントロールがうまくできないのだ。

ついに髪の毛が抜け始めた




 1回めの抗癌剤から十日後ついに髪の毛が抜け始めた。自然にハラハラと抜けるのかと思っていたけど、キュと誰かに引っ張られているような感じだ。

 頭皮が痛む。 

 自分で引っ張るとスッと髪の毛が驚くほど抜ける。

 枕にも落ちてきていた。


 美容院で短めのショートにはしてあった。 アメリカの美容院なので、かなり残念な感じのカットであった。

 これからどんどん抜けると思い、自分でベリーショートにまでカットしてしまった。



 なんとアンダーヘアーもぽろぽろ抜ける。 髪の毛だけではなく全身の毛が抜けるそうだ。わかっていたことなので、悲しいというよりも不思議な感じがする。

 また血液検査と腫瘍科で検査があった。 翌日2回めの抗癌剤があるのだった。

 同じ時期に三沢から来たTに会った。彼女は同時再建で自家組織を使って手術をした。


 「どうだった?」と聞くと「まだお腹が痛くて座れないわ、でも見せてあげる」とシャツをめくる。

 お腹に真横に大きく切り傷でしかも上下がでこぼこしていて(お腹をへこませる手術)という感じではなかった。胸もがたがただった。正直な気持ちを書くと、こんなひどいのなら、再建したくない。と思った。
こういう再建手術はきっと日本のほうが上手なのだろうと思う。





 夕方ダウンタウンまで行って、手術後用のブラを2枚、シリコン製の胸を受け取った。

 シリコン製のフェイク胸は高価なのだが、これは保険が適用された。 

 重みがあり、とても自然で嬉しい。今までは綿を詰めたものだったので、軽くて上にずり上がってきたのだった。このシリコンはどっしりと重みがある。ヌーブラをうんと分厚くした感じだ。偽乳首まで付いている。

 嬉しかった。 

 コットン製のパッドを買っていたのだけど、あまりに軽くて心もとない。

胸を失い、髪の毛も抜ける乳がん治療というのは女性にとってこんなにも辛いことなのかと驚く。

 治療を受けない人の気持ちもわかる。この頃他の治療法があったら飛びついていたかもしれない。

髪の毛を剃ってしまった



2回めの抗癌剤

 左のリンパを手術しているので、傷をつけられない。なので注射も右腕にしか点滴用の注射の針をさせない。上の方から血管を探していって、失敗すると少しずつ下に下る。だいたい失敗されて、いつも手首だ。親指の付け根のことろで、とても痛い。 

 血管が細い人は首の中にポートと呼ばれるものを入れる、血管とつながっていて、そこに抗癌剤など注入する。毎回血管を探さなくても良いように。

 腕に刺した管をつけっぱなしの人もいる。胸のチューブが不愉快だったので、私はそれは嫌だと言った。毎回痛い思いをするけれど、しょうがない。

 大体1時には終わる。まず点滴。 11時頃からアドレアマイシン、12時から1時までシクロフォスミド。今日も鼻の奥がツーンと痛くなった。海で鼻から水が入った感じだ。




 その夜は全然眠れなかった。 まだ吐き気は来ていなかった。翌日も新しい薬が効いて吐き気はゼロだった。これは嬉しい。

 親友に電話をした。ひさしぶりの大きな明るい声に元気をもらった。とってもうれしかった。

 シャワーをすると両方の手のひらに、指に、髪が絡みつく。背中をシャワーのお湯とともに流れていく。わかっていたけれどやはり悲しかった。これから抜け続けていくのだろう。

 夫が病院に白血球を増やす注射を取りに行った。抗がん剤中は血液中の白血球が減少する。そうすると免疫力が下がり、少しの菌でも感染するのだ。この週者を抗癌剤の後10本打つ。 

 抗癌剤は全部で8回したので、この頃お腹に80本注射をしたことになる。


 今回は吐き気はないが具合が悪くずっと横になっている。精神的にも落ち込んで涙がぼろぼろ流れる。

 夫と息子が日本に行くのがとても不安だ。離れたくない。

 食欲が全く無いのに顔が丸くなってくる。この頃素麺とつゆにしょうがをすり下ろしたものが一番食べやすかった。 水も変な味なのでスプライトをガブガブ飲む。

 夫がお腹に注射をしてくれたが痛かった。これを毎日自分でするのかと思うと悲しくなる。

 後数日で日本へ行ってしまう夫と息子。3週間弱で帰ってくるけれど、とても不安で寂しい。
そして2回めの抗癌剤から5日目。 

 バラバラとものすごく髪が抜け始める。 あまりにもまばらになったので、コットンのターバン風の帽子を被る。それを見て息子は泣き始めた。

 夕食後、髪の毛を全部そってしまった。 夫に手伝ってもらった。

 毎日抜け続けるよりは良いと思ったけれど、やはり涙がボロボロ止まらなかった。

 鏡に写った顔はおじさんのようだ。 それなのに夫は

「かわいいね、生まれたてのベイビーみたいだよ」と言ってくれる。やさしい人だ。

「うそつき」と笑い、そしてもっと涙がこぼれた。

「じゃあ、僕も剃るよ、一緒だよ」と自分の髪の毛も剃ってしまった。 

 その優しさに言葉では言えない大きな愛情と絆を感じた。これから日本へ行ったり、トレーニングもあるのに。一瞬の躊躇もなくバリカンで髪をそってしまった。

 その気持ちに答えたい。絶対に元気になりたいと思った。





夫と息子と2週間のお別れ


 引っ越しの用意をしなくてはならないので夫が日本へ行くことになった。

 息子は少しでも前の学校に行けたら友達にも会えると思い一緒に行かせたのだが、朝から行かないと大泣きだった。

 空港にいる夫から電話が入る。

 「すぐに帰ってくるからね、がんばるんだよ」というバックグラウンドは息子の叫び声だった。

 「飛行機に乗らない~」と大泣いていた。その声を聞いて胸が痛くなる。私も離れたくなかった。それでも行かせたのは何も出来ない私と一緒よりも夫と一緒のほうが安心だったのだ。 

 最近ずっと夜も2人で寝ていてゲームをしたり遊んだり、すごく絆が強まったように思う。

 今泣いているけれど、日本で楽しんで欲しい。元気いっぱいの笑顔で帰ってきて欲しい。

 

 この頃から上司の奥さんキャリーとよく電話するようになる。

 この人は年上で細身の白人女性だ。長いカーリーのブロンドへヤーが自慢で、髪の毛が抜ける事を今から悲しんでいた。

 吐き気は収まっているけれど、ひどい疲労感が襲ってくる。 それから喉が焼けつくように痛む。味もわからない。舌の上にサランラップをかぶせているような感じだ。

 夜は1人で注射も出来た。実は怖くてブルブル震えていると注射器の針が偶然おなかに刺さってしまった。なので、そのまま薬を注入した。 もう大丈夫だ、怖くない。

 夜遅く夫から電話が入る。息子とも話をしたら、嬉しそうにはしゃいでいた。

 「大好きなツナおにぎり食べたよー。家の中はね、まだパーティーの後のままだよ。これからゲームするの」なんて言ってて朝大泣きしたのがウソのようだ。 久しぶりの自分の家、自分の部屋で嬉しかったのだろう。

 「ママの顔を思い出すと悲しくなる」なんていう、とてもかわいい。少し強くなれたかな、ハッピーな声を聞けてとても嬉しかった。




 車の運転ができないので夫のいない間の病院への送迎を友人に頼んだ。 抗癌剤は2週間に一回だ。 

 3週間に一回のところ「続けざまに攻撃したほうが効果が良いと思う」というドクターの言葉を信じて投薬していた。 

 10日間は生きる屍のようで元気でいられるのは4日程度だった。 この4日を利用して外に出たり家事をする。

 キャリーと一緒に買物にもでかけた。キャリーもハワイに移住することになったが、それまでの間病院隣りにある施設に泊まってたが、やはり家を買うことになった。

 3回めの抗癌剤も終わり、だんだん慣れてきた。疲労感や吐き気はあるものの、最初の日、それから後半4日はなかなか元気でいられる。


 夫の母がカリフォルニアから電話をしてくれた。 もうすぐ来てくれることになっている。その日は疲労感がひどく、横になったまま力なく話をする。
付き合っている人がこんなひどいこと言ったのよ、なんていう内容の話

 「なにそれ!ひどい!!」とがばっと起き上がってしまった。

 「あら!元気が出た」と笑っている。

 「胸の傷見てあげるから」と言い「息子が剃ったのなら私も髪を剃るわ」と言ってくれた。夫の母本気だ。もちろんNo way!(絶対ダメよ)といったけれど、その気持がジーンと胸を打った。


 この優しい夫の母親もこの後乳がんになるなんて、この時は知る由もなかった。


 コンピューターがあるのでメールもかけるので、それが嬉しい。

 ただ、インターネットで乳がんのことをいろいろ調べてしまうので、落ち込むことも多かった。当時はブログもそれほど盛んではなく、やっと調べてたどり着いてもブログ主さんが亡くなってしまっている場合も多かった。

 わかっていても、見てしまうと辛くなる。

 自分よりもステージが高い人が長生きしているブログはないかずっと探していたような気がする。




 病院でもらってきた抗癌剤の本も読みだした。 

 英語なので読む気がしなかったのだが、少しでも情報がほしいと思い読み始める。 

 喉の痛みがひどかったのが副作用だと知った。もうっと用語を勉強しなければならない。

 日本に行っている夫は大急ぎで手続きなどをして2週間で帰れるという。 すごく嬉しかった。

 息子は仲良しの友達とまた別れてくることになる。 つらい思いをさせている。
2人が居ないととても寂しい。一緒にいるだけで安心する。


 ついに家に帰れないまま引っ越しになる。 箱詰めや引越し作業を見ていなかったので、この後数年まだ同じ場所に住む場所があるような気がしていた。

 3月にハワイに来て3ヶ月たっていた。


 3度めの抗癌剤は同じガンを患っているキャリーが病院まで送ってくれた。その前日の腫瘍専門医のBのアポイントメントも連れて行ってもらったのだが、また1時間待たされた。

 「いつもこうなの?いいかげんね!」と怒っている。 血液検査も待たされた。 キャリーは抗癌剤はまだなので、いろいろな副作用の話をする。

 副作用の一つに味が変わるというのがある。 水を飲んでも辛かったり甘かったりする。 一度エビを食べたら飛び上がるほど辛かった。 敏感になっているのかといえばそうでもなく、全く味がしないこともあった。

 抗癌剤は4時間ほどかかるのでキャリーは一度帰って、終わる頃また来てくれた。それもありがたかったし、同じ話題の話をできる友人が居たことは精神的にすごく楽だった。

 日本の夫が食品や雑誌ビデオなどを送ってくれて、すごく嬉しかった。

 引越業者が来て箱詰め中だそうだが、その合間に必要な物を分けておいてくれた。ありがたい。 ここは自分の家ではなく、荷物も最小限しか持ってきていなかったので、自分のものが少しでも手元にあると気持ちがとても違うものだ。

 夫と息子は日本だが、母が来てくれていた。2回めの抗癌剤のころだった。
 
 来てすぐに大げんかをした。母は思ったことを何でも言ってしまう人で悪気はないのはわかっているが、こういう精神が安定していない時には受け止められないのだった。抗癌剤中に興奮したので心臓がぶるんと震えて止まるかと思った。

 状況をなかなかわかってくれなかった。白血球がすごく減っているので、気をつけなければならないだけど、アメリカ式の使いにくいシャワーを浴びたくないと言うので、困ってしまった。

 ただ一度したケンカ以来気を使ってくれている。 話をしていると、気分も紛れてくる。

 母が来てすぐの頃に「日本に帰りたい、どうせ死ぬなら日本で死にたい」と言ってしまい泣かせてしまった。 そしておしゃれが好きだった私をいつも褒めてくれていたので、丸坊主の頭を見るのがとてもつらそうだ。

 やっと顔を見て「かわいいよ」と言ってくれたのだが泣きだしてしまった。 嘘をつくのが苦手なのだ。

 もう一人の母、夫のお母さんも毎日のように電話をくれていた。 多くの人に支えられているのだと感じた。

見えてきたことがたくさんある。

 2人の母と中学校からの親友は特に心配して電話をよくかけてくれた。母は日本から来てくれているし、夫ママも1ヶ月後くらいに来てくれる予定になっていた。
知り合いも本や雑誌や食品を送ってくれたり、カードやお見舞金をを頂いたりもした。

 離れていった人もいた。元小学校の関係者、いわゆるママ友と呼ばれる人たちなどだ。

 打ち明けるのは勇気がいるけれど急な引っ越しで言わないわけにはいかなかった。
こういう重い病気にかかると、誰が本当に気にかけてくれているのかがよくわかる。離れていった人たちのことは気にしないようにしようと後から思ったが、その当時は精神的にきつかった。

 見えないものがあれこれと見えてくるのだけど、今まで目をつぶって見ないようにして来たこともたくさんあるんだなと思った。

 優しい人の心に触れると嬉しくなるし元気が出てくる。 特に親友の明るい大きな声を聞くと元気がもりもりと出てくる。 どれほど助けられたかわからない。


 人は沢山の人に支えられているのだと、病気をして初めてわかったのかもしれない。



ハワイに来て3ヶ月経った。見えてきたもの



 コンピューターがあるのでメールもかけるので、それが嬉しい。


ただ、インターネットで乳がんのことをいろいろ調べてしまうので、落ち込むことも多かった。

 当時はブログもそれほど盛んではなく、やっと調べてたどり着いてもブログ主さんが亡くなってしまっている場合も多かった。
わかっていても、見てしまうと辛くなる。

 自分よりもステージが高い人が長生きしているブログはないかずっと探していたような気がする。当時その願いは叶わなかった。

 病院でもらってきた抗癌剤の本も読みだした。 英語なので読む気がしなかったのだが、少しでも情報がほしいと思い読み始める。 

 喉の痛みがひどかったのが副作用だと知った。もうっと用語を勉強しなければならない。

 日本に行っている夫は大急ぎで手続きなどをして2週間で帰れるという。 すごく嬉しかった。息子は仲良しの友達とまた別れてくることになる。 つらい思いをさせている。

 2人が居ないととても寂しい。一緒にいるだけで安心する。
ついに家に帰れないまま引っ越しになる。 箱詰めや引越し作業を見ていなかったので、この後数年まだ同じ場所に住む場所があるような気がしていた。

 3月にハワイに来て3ヶ月たっていた。


 3度めの抗癌剤は同じガンを患っているキャリーが病院まで送ってくれた。

 その前日の腫瘍専門医のBのアポイントメントも連れて行ってもらったのだが、また1時間待たされた。

 「いつもこうなの?いいかげんね!」と怒っている。 血液検査も待たされた。 キャリーは抗癌剤はまだなので、いろいろな副作用の話をする。
副作用の一つに味が変わるというのがある。 水を飲んでも辛かったり甘かったりする。 

 一度エビチリを食べたら飛び上がるほど辛かった。 敏感になっているのかといえばそうでもなく、全く味がしないこともあった。

 抗癌剤は4時間ほどかかるのでキャリーは一度帰って、終わる頃また来てくれた。それもありがたかったし、同じ話題の話をできる友人が居たことは精神的にすごく楽だった。

 日本の夫が食品や雑誌ビデオなどを送ってくれて、すごく嬉しかった。
引越業者が来て箱詰め中だそうだが、その合間に必要な物を分けておいてくれた。ありがたい。 ここは自分の家ではなく、荷物も最小限しか持ってきていなかったので、自分のものが少しでも手元にあると気持ちがとても違うものだ。






 夫と息子は日本だが、母が来てくれていた。2回めの抗癌剤のころだった。
 
 来てすぐに大げんかをした。母は思ったことを何でも言ってしまう人で悪気はないのはわかっているが、こういう精神が安定していない時には受け止められないのだった。抗癌剤中に興奮したので心臓がぶるんと震えて止まるかと思った。

 状況をなかなかわかってくれなかった。白血球がすごく減っているので、気をつけなければならないだけど、アメリカ式の使いにくいシャワーを浴びたくないと言うので、困ってしまった。

 ただ一度したケンカ以来気を使ってくれている。 話をしていると、気分も紛れてくる。
母が来てすぐの頃に「日本に帰りたい、どうせ死ぬなら日本で死にたい」と言ってしまい泣かせてしまった。 そしておしゃれが好きだった私をいつも褒めてくれていたので、丸

 坊主の頭を見るのがとてもつらそうだ。
やっと顔を見て「かわいいよ」と言ってくれたのだが泣きだしてしまった。 嘘をつくのが苦手なのだ。

 もう一人の母、夫のお母さんも毎日のように電話をくれていた。 多くの人に支えられているのだと感じた。

見えてきたことがたくさんある。

 2人の母と中学校からの親友は特に心配して電話をよくかけてくれた。母は日本から来てくれているし、夫ママも1ヶ月後くらいに来てくれる予定になっていた。
知り合いも本や雑誌や食品を送ってくれたり、カードやお見舞金をを頂いたりもした。

 離れていった人もいた。元小学校の関係者、いわゆるママ友と呼ばれる人たちなどだ。

 打ち明けるのは勇気がいるけれど急な引っ越しで言わないわけにはいかなかった。

 こういう重い病気にかかると、誰が本当に気にかけてくれているのかがよくわかる。離れていった人たちのことは気にしないようにしようと後から思ったが、その当時は精神的にきつかった。

 見えないものがあれこれと見えてくるのだけど、今まで目をつぶって見ないようにして来たこともたくさんあるんだなと思った。

 優しい人の心に触れると嬉しくなるし元気が出てくる。 特に親友の明るい大きな声を聞くと元気がもりもりと出てくる。 どれほど助けられたかわからない。
人は沢山の人に支えられているのだと、病気をして初めてわかったのかもしれない。

辛い抗がん剤の副作用中に帰ってきた夫と息子


 抗癌剤も3回めになると副作用が強く出てくる。体に蓄積されていくのだろうか?


 一番きついのは疲労感だ。 ベッドに横になっているだけなのにマラソンの後のような激しい疲労感。 それがしばらく続いて、その間は何も出来ない。

 まぶたを開けるのさえ、あまりにも疲れて出来ないことがあった。 

 私は幸い吐き気は薬でかなり抑えられた。 人によって副作用がひどく違う。こんなにも目も開けられないほど疲れていて何も出来ないのに、生きているといえるんだろうかなんて思ったことさえあった。

 それからお腹にする注射も抗癌剤の後10本なのでこの時までに30本打った。 

 もう手も震えない。

 早く元気になりたいと毎日それしか考えられなかった。
抗癌剤で体力が落ちているときは落ち込むことも多かった。

 いつまでこんなことが続くんだろうか。このACという薬は後1回。だけどそれからタキソールという違う抗がん剤がまたある。 

 うんざりして元気のない日々だったが、2週間ぶりにやっと夫と息子が帰ってきた!
すごくすごくうれしい。 

 「ただいま!今建物のそばだよ」と電話がかかった。

 慌てて外まで出てみると2人がスーツケースのそばでニコニコしていた。
息子は一回り大きくなっていた。いきなり少年という感じになっていた。駆け寄ってきてハグをする。背が急に伸びたような感じだった。

 「見て~!下の歯が抜けたんだよ」とぴょんぴょんと飛びながら見せてくれるところは、前と変わらない。

「トゥースフェリー(アメリカで歯が抜けるとやってきてお金を枕の下に入れてくれる妖精)も来たんだよ!」と大喜びだ。

 大きくなったとは言え、まだまだサンタクロースもトゥースフェリーも信じているのだ。

 夫もすごく嬉しそうだ。会いたかったとハグを何度もして喜び合う。

 一緒に部屋に戻りスーツケースを開けると食品とそれから女性誌やファッション誌がたくさん出てきた。 夫が日本の本屋で大量にファッション雑誌を選んで買ってくれているところを想像してクスッと笑った。 

 「わ!本当にありがとう!すごく嬉しい!!美容雑誌まで!」と言うと

 I know you (君のことは知ってるんだよ)と笑う。

 本当に会いたかった。

 帰ってきてくれてすごく嬉しい。具合は悪かったけど、気持ちは最高にハッピーだった。

 夜、夫と話し合う。気持ちを吐き出して、聞いてもらってすっきりした。いつも力になって励ましてくれる。 素晴らしい夫を誇りに思う。 

 抗がん剤治療から一週間ほどで外に出たり普通のことができるようになるので、食品を買い出しに行く。 冷蔵庫を一杯にした。

 (普通)がどれほど幸せなことなのかわかっていなかった。 

 何も出来ない数日間は本当に辛い。一週間たち十日たち、やっと普通に歩けたり家事ができる。 そして数日後また抗がん剤だ。 本当に嫌だ。 時々わーっと泣き出したくなる。

 それから、ここも借りの施設なので後数ヶ月は住むのかと憂鬱になる。

 母が来てどこにも連れて行けなかったのでアラモアナに行ってみる。皆でレストランで食事をして、笑いながら話をした。


 そういう普通のことがとてもとても幸せだった。 

あまりにも辛い抗がん剤4回目。限界だった。


 

 数日後、今度は夫だけ新しい仕事のトレーニングのための出張に行く。またさみしくなる。

 母にはこのためにも来てもらっていた。病院に行く間に息子を見てもらおうと思っていたのだった。 アメリカの法律で8歳の子供を一人置いて外出できないのだ。

 夫が出張に行った夜、息子はまた不安と日本旅行の疲れもあり、泣き出してしまった。寂しかったのだろうと思うのだが、あまりにも疲れていたので怒ってしまう。

 翌日外で少し遊んでから、昔好きだったドラクエを一緒にする。 すごく楽しそうだ。日本語のゲームなので、この字はなに?なんていう意味?と、どんどん日本語を覚えていく。

 いよいよ4回めの抗がん剤だ。 

 前日夫の知り合いの奥さんが病院に連れて行ってくれた。血液検査をして腫瘍科のドクターBの検診。

 翌朝また迎えに来てもらい、結局母も息子も一緒にいくことになった。息子はおばあちゃんと一緒なら、泣きもせずに隣りに座ってミニゲームをしていた。

 ここも子供の入れない部屋なので、点滴のカートを押しながら出て行って時々話をする。

 今回は一番ひどい副作用に悩まされた。4回目なのでマックスなのだろう。

 終わってすぐに気持ち悪さや疲労感が来た。ベッドから出られなかった。

 このACという種類の抗癌剤は4回でこれで終わりだけど、タキソールという抗癌剤も4回するという。これを聞いた時も落ち込んだ。

 「4回だけではだめですか?もうかなり限界です」というと
 
「君次第だけどね、あまり良くないタイプだから叩いておいたほうが良いと思うよ。やめてもいいけどね」

 そう言われると「やめます」と言いづらい。実は一度泣きながら「もうやめます」と言ったこともあった。副作用が激しかった時だ。

 「やめたければやめてもいいんだよ」と言われ、はっとした。

 これは自分の為の治療なんだと。頼まれてしていることではないんだと。出来る限りの治療はしようと思った。


 夫は2週間後に帰って来る。カリフォルニアから夫の母もやってくる。その頃には少し元気になりたい。皆で出かけられたら良いなと思う。

 今回は特にひどい副作用で起きていられなかった。 

 息子が夜泣いたので、つい怒ってしまった。母も言っても何日もシャワーをしてくれない。いらいらが続いていた。


 横になっていることしか出来ないことが腹立たしい。食べ物も全部変な味だ。甘いのか辛いのかわからない。腐っていてもわからないかもと思った。

 舌の上に障子紙を貼ってるような感じだ。何を食べてもがさごそして、変わった味だ。 そのうち抗がん剤の味がしてきて、まいった。

 なので、食欲はゼロだけど何か口に入れなければと無理に食べる。目を開けていられない、まぶたを持ち上げるのが、ものすごく疲れる。 早く元気になりたい。

 ハワイに来た頃と見かけも体調もすごく変わった。今年中に治療が終わって元気になれたら良いなと思う。






生きていたい


あと2か月。

 8月に全ての抗癌剤が終わる。そして10月には放射線が終わる予定だ。

 今年中に再建手術もできるだろうか? その頃引っ越しもある。 学校のことなど心配もたくさんあるが、早く病気を治したい。なんとか元気になりたい。

 毎日そのことばかり考える。

 だいぶ副作用が楽になってきたので、息子に本を読んであげられた。 毎日寝る前に日本の本を読んでいたのだけど、今回の副作用があまりにつらくて、しばらくできなかった。

 いつものように本を読んで話をして安心したのか泣かずにすっと眠れた。

 母親がいつもできることが出来ないというのはとても不安なのだろうと思う。

 日本での生活は楽しかった。あんなに元気で頑張っていたのに。あの健康な日々に戻りたい。

 もう少し早く検査に行けば良かったと思う。発見が早ければ早いほど治療も楽になる。もちろん生存率もあがる。

 今は体力もなく、元気になりたいと思うものの、すぐに「後何年あるのかな」と考えてしまう。今回は特に具合がわるいので、精神的に落ち込んでいる。インナーネットの記事を読むと心配にもなる。

 お腹もすごく痛くなり、もううんざりだ。何もかも嫌になり、叫びたくなる。

 とにかく早く落ち着いた生活がしたいと思う。 この仮の住まいではなくて、本物のホームで。


 この頃毎日怖い夢を見ていた。ドキドキして目が覚める。喉がヒリヒリと焼けつくように痛む。胸もやける。

 泣いている息子をついしかってしまった。

口には出さなかったけれど「もし、ママがいなくなったらどうするの?強くなって!」と心のなかで叫んでいた。

 叱ってしまった後悔と情けなさといろいろな感情でいっぱいになる。





生きていたい。


家族と一緒にいたい。


息子の奥さんや子供が見たい。 


夫と一緒に年を取って行きたい。



水が水の味がするという幸せ



 2週間たち夫が帰ってきた。 疲れきっているようだ。 

 急にハワイに来て私の介護や息子の世話、日本へ帰って引っ越しの用意、帰ってきたらまた出張と忙しい日々を送っている。申し訳なく思う。

 親友から(乳がん全書)という分厚い本が届く。 この本はこの日から何度も何度も読み、私のバイブルとなった。

 翌日は病院で新しい抗癌剤の説明を受けた。

 副作用はこちらのほうが軽いそうだ。ただ、こちらの抗がん剤も髪が抜けるそうで、もう生えてくるかもと思っていたのでがっかりした。

 ウイッグがあまりにも暑いのでお店に帽子だけで出かけて、じろじろと見られてしまった。深くかぶってはいたけれど、うつむいたりした瞬間後ろの頭が見えてしまう。まつ毛や眉毛も半分くらい抜けている。




 
 キャリーから電話がかかってきた。

 ここのところずっと泣いているという。年上で気丈な女性なのだが、やはり乳がんとはそんな女性からも勇気を奪ってしまう病気なのだ。

 私も泣いた。いやまだ泣いている。 泣きつかれた。 

 だけど治療が終わって泣いた分だけ笑える日が来れば、それでいいと思う。

 次の抗がん剤まで日にちが開いていたので、元気に過ごせた。
カリフォルニアから夫の母親も来てくれた。空港から出てくると夫の剃った頭を見て

「マイベイビー!すごく誇りに思うわ」という。

 そして私のことをぎゅっとハグをしてくれた。この人は初めて会った時、外国人の嫁の私のことをハグしてアイラブユーと言ってくれた人だ。

「元気そう!よかった!一緒に買い物に行けるわね!」

「またそんなことばかり!でも行くけどね」と笑いあう。

 すぐに施設にスーツケースを置きに行き、そのまま買い物や食事にでかける。
私の母とも仲が良く、私たちはダブルママの意味でM&Mと呼んでいた。


 急に人が増え、賑やかになった。私もちょうど副作用が終わった頃だったので毎日楽しく過ごすことができた。

 だが、すぐに次の抗がん剤のタキソールが始まるのだった。

 5回目の抗がん剤。 最初に飲むベナドレルという薬を通常の5倍投与されて気分が悪くなり倒れる寸前になる。すぐに吐き気止めの薬を飲ませてくれた。

 それ以外、この抗がん剤はACの時のような(人間やめますか?)というほどの激しい副作用が全くない。 これは本当にうれしかった。主な副作用は足の痛みだそうだが、それもまだでていない。

 食べ物の味も戻ってきた。 

 パンを食べてパンの味がするというのはなんと嬉しいことだろうか。 いままでは乾いたスポンジに薬を塗っているような味だった。後半は何を食べてもパサパサで抗がん剤味だったのだ。

水が水の味。食べ物の本来の味。うれしい!





独立記念日の花火を後何回見られるのかと思った



 私たち3人と夫ママと母の5人でワードセンターやアラモアナ、ワイキキといろいろな場所へ行った。

 7月4日のインディペンデンツデーにはカーニバルに行き風船を割るゲームやコインを投げるゲームをした。 

 カーニバルとは移動式の遊園地のようなものだ。 一定に期間だけ開催される。子供たちは皆楽しみにしているのだった。

 カーニバルの後の夜の花火をパールハーバー基地のそばの芝生に皆で寝転がって見た。
独立記念日には必ず花火が上がる。

息子はゲームでゲットした大きなクマのぬいぐるみと寝転がっている。

 ひゅるるるっと白い光が昇っていく。

 一瞬明るくなって皆の顔を照らす。直後に色とりどりの花火が頭の上から降り注ぐようだ。

 遅れてお腹に響くどーんパリパリパリと音がする。

 火薬の匂いがする。



 毎年7月4日に花火を見ていた。

 またこうやって家族で花火を見られる日が来るなんて、と胸がいっぱいになった。

 あと何回見られるのだろうかと思うと涙が流れたが、今はこの瞬間の幸せをかみしめたい。そう思った。

 夫ママは行きたいところを全部見て2週間ほどで帰って行った。

 タキソールはやはり足が痛むのだが、我慢できないことはない。 なので一緒にあちこちに行けた。

 ずっと看病してくれた母もやっと一緒に出かけられるようになった。

 一度だけ外出先で具合が悪くなったのだが、脱水症のような感じだった。抗がん剤中は水をたくさん飲まなければいけない。

 この頃、抗がん剤を始めたキャリーはひどい吐き気で何も食べられず、水も飲めずに心臓が石のように固く痛くなったと緊急室へ運ばれた。

 脱水で入院となった。キャリーは初めての抗がん剤なので


 「どうやってこれをやりとげたの?私は無理かもしれないわ」と弱気になっていた。


 母も日本へ帰る日が来た。帰るときはやはり寂しかった。

 母2人が帰っていき、急にポンと時間ができて、静かになった。

 夜妹の家に電話をしたら、ちょうど母が帰ったところだった。ただの寂しさではない言葉で言い表せないような不思議な気持ちだ。

 自分の場所へと帰って行った母親への切ない感情なのだろうと思った。

人前でウイッグを取った日 泣きわめく友人


 
 7月のはじめにキャリーとアラモアナの近くにあるサロンにウイッグを買いに行く。 

 このサロンのオーナーも元癌患者で安くウイッグを提供してくれてカットもしてくれる。 その場で髪をそる人と、もう髪がない人が対象になる。

 まだ髪が抜けていないキャリーはウイッグを選ぶだけにした。 

 私はその場でウイッグを外したのだが1本も髪の毛が生えていない頭を見て、キャリーはとてもショックを受けていた。ここは髪の毛のない人が対象なので仕方がなかった。

 彼女は最初に選んだブロンドのショートのウイッグを胸に抱えたまま目をそらしていた。

 髪が抜けることはわかっていても、実際に目にすると驚くのだろう。それも自分の近い未来の姿なのだから。

 この数日後電話をするとキャリーは子供のようにワンワンと泣いていた。髪がごっそりと抜けたのだという。 

 長い髪を切らなかったので、ビジュアル的にもショックだっただろうと思った。

 かわいそうだけど、乗り越えるしかないのだ。 抗がん剤をするなら髪の毛は抜けるのだから。

 彼女はこの後同じサロンで髪をそり、ショートのブロンドウイッグを買った。

 だが、気に入らす新しいウイッグを買い、そのブロンドウイッグをもらった。そしてまた気に入らずに2つももらった。私は気に入ってかぶっていたので当時の私は毎日ブロンドだった。

一緒にウイッグオンラインサイトも見た。

 長くきれいなブロンドの髪の毛が自慢だったキャリーにはどんなウイッグにも満足できずにいくつもいくつも買い求めた。



☆キャリーが買っては買っては気に入らず私にくれるので金髪のかつらばかりになった☆

泣く子供 ドラクエの効果



 6回目の抗がん剤も終わり、あと2回。

 息子の精神状態はまだ安定しておらず、時々3歳くらいでやめていたマミーという言葉で私を呼んだりしていた。

大泣きしながら「マミーマミー」と声を限りに叫ぶ。

 頭の中の映像は(お墓の前で最高なママだったといって泣いているところ)だという。 

 それから

「真っ暗の中をママがどんどん小さく遠くに行って消えちゃうの」といつも言う。


 その話を聞いて紙にその絵を描いて破らせた。 

 「ほらー、もうなくなっちゃったよ」

 「それは絵だから……」

 「じゃあ目の前のママを見て!すごく元気でしょう?」と変な顔をする。

 ちょっとだけ笑う息子。

 どうしたら気持を楽にしてあげられるだろうか。



 
 病院で小さい子供に抗がん剤の説明をしていた。 

 お母さんの乳がんの話
 
 抗がん剤って何?どんな薬? 

 そして抗がん剤をする部屋を見せてくれたのだが、逆効果だったような気がする。


 渡された絵本もお母さんが抗がん剤をして髪の毛が抜ける話だった。

 頼まれて何回か読んだのだが、あまり効果はなかったような気がする。

 ある日また突然の号泣が始まったときに


 「あのね、抗がん剤はね、すっごく強い武器なんだよ、ラスボスなんてすぐやっつけちゃうバトルアックスなんだよ!
と当時2人でやっていたドラクエの中の武器の名前を使った。

 「え!そうなの? 強い武器なの? でも、がんも武器持ってる?どんな武器?」と聞くので、間髪入れずに


 「こんぼう!」


 一番弱い武器の名前を言ったら、はじめて晴れ晴れと笑った。








13年も痛む神経 変わっていく外見



 手術した側の左胸の骨の部分が痛み出した。

 乳がんの転移で一番多いのは骨転移だそうだ。 どきりとした。

 抗ガン治療中なのに、そんなことあるのだろうか? 腫瘍化の医者に話を聞きに行く。

 念のために骨の内部を調べる(ボーンスキャン)をすることになったが、手術側の神経が痛んでいるそうで、よくある症状だそうだ。何年も痛みが残るらしい。

 13年後の現在もまだ痛むことがある。神経がずたずたになっているのだと思う。現在のことを言うと、時々骨の近くがきりきりと痛み、切り傷も天候などによって痛む。

 時代物のドラマなどで浪人が「こんな寒い日は刀の傷が痛む」というセリフがあるが、あれはこんな感じなのかなと思った。

 この頃は何か異常なのではととても心配だった。 情報も今より少なかったからだ。いまではインターネットでも探せばすごく情報が集められるけれど、この頃はあまりにも少なかった。

 胸の痛みはあったが、タキソールという抗がん剤は足の痛みだけで、食事の味も戻ってきた。それが飛び上がるほどうれしかった。食べたものの味がする喜びは、この経験をしなければわからなかっただろうと思う。

 ただ、足は眠れないほど痛むときもあった。それがタキソールのと特徴なのだそうだ。あとの副作用は腹痛、胸やけなどやはり内蔵関係だ。 

 やっと普通の夢を見た。カラフルだったが怖くもなく気持ち悪くもなく普通の夢だった。 

ずっと悪夢だったので、嬉しかった。自分の中に希望が生まれてきたからだろうか?

(希望)はとても大事なことだと思う。 生きる力が変わってくる。

 



 ハワイに来てもうすぐ5か月になる。 

 ずっと手術と抗がん剤の治療だった。


 あっという間に人生が変わった。 

 見かけも、もちろん変わったが、性格も変わったと思う。

 最初の苦しい抗がん剤が終わってからは、普通のことができるようになり、息子とも毎日ゲームなどして遊んでいる。

 少し元気になったママと遊べるからか、息子も泣くことが少なくなってきた。

 今回の抗がん剤は副作用は前よりも楽だけど、飲む薬が増えた。前日に飲まなければいけない薬を飲み忘れて受けられないことがあった。血液検査も頻繁にある。

なんといっても抗がん剤はもともと毒ガスから生まれたもので、正常な細胞も殺してしまう。前日に飲む薬を忘れたので亡くなった人がいると聞いた。

 それから注射を何本も刺されて針山の気分だ。 手術をしていらい右腕にしか刺せないので穴だらけだ。


 今回の抗がん剤は普通の生活が可能なので、買い物にもよく出かけていた。 

 時々帰ってから涙が止まらない時があった。 健康な人であふれている街に出ると自分だけが病気なような気がする。


 顔はむくんでどす黒い。かつらをかぶり、胸を隠すためのシャツを着ていて暑い。体重も増えたのでショーウインドウに映った自分の姿を見てぎょっとすることもあった。

 みじめで悲しくなる。

 「ママ変わったね」と思わず息子に言ってしまったら、

 「ノー変わってないよ。同じハートだから」と言ってくれて涙が出た。私が昔言ったことを覚えていてくれた。

 

 抗ガン剤を受ける部屋が変わっていた。 大きな病院で少し迷った。 新しくできだ病室だ。ここには子供が入れない。

 この時にカウンセラーが親のがんの説明などをしてくれたのだが、これが良くなかったような気がする。 やはりあまり現実を突きつけるのではなく、オブラートに包んで話したほうがいいのかもしれない。

 アメリカは昔からがんを患者に告知していたそうだ。どんなに末期でも告知する。 それから子供にもきちんと説明する。

 それも良し悪しではないかと思う。特に小さい子供には辛いことだろう。本当のことだとしても。どうすれば子供の不安を取り除いてあげられるだろうかとそればかり考えていた。


 最近やっと前向きに考えられるようになった。 足が痛く引きずっているが、生活のほとんどのことができる。癌に打ち勝ちたい。




注 今では抗がん剤の副作用もおさえられる良い薬があると聞いています。医療は発達していて、14年前と今では治療も全く違うので、恐れずに治療してくださいね。




ついに最後の抗がん剤 5回の癌を生き延びたケイシー


 

 最後の抗がん剤の前に基地の施設からビーチエリアののタウンハウスへ移れることになった。こんどはここに3か月ほどいることになる。 

 日本からの荷物はコンテナに入ったまま港に保管してあった。 これは家が建ったら運び込まれることになっている。


 息子は3年生からここの小学校へ通うことになった。ハワイでは8月の初めごろから新学期になっていたので、夫が連れて行ったのだが、やはり初めはクラスに入れなかった。

 夫が一日付き添った。

 闘病中の引っ越しは足を引きずりながらで大変だったが、やることがたくさんあって、嬉しかった。タウンハウスは2階があったので2階の寝室にタオルやシーツや洋服を一日運んだ、

 施設では借りていたお皿やキッチンのものが、ここにはないので少し買った。きれいなタウンハウスで普通の生活ができることが本当にうれしい。

 ついに最後の抗がん剤をする。


 うれしくて叫びたいくらいだ。 

 前日の腫瘍科医は忙しく機嫌も悪く、書類もなくし、リンパ腺の転移の数も間違えていた。 自分で見つけたくせにと思う。 この人に会うと余計に具合が悪くなってしまう。


 前夜と早朝に薬を2回飲み、抗がん剤室へ。

 大きい部屋にうつってから2回目だ。たくさんの人がいる。 この人たちは皆癌という病気と闘っている。 顔色が皆似ている。 灰色のようなどす黒い感じになる。





 最後の抗がん剤治療ということで、病院で知り合いになったケーシーが電話をくれた。
この女性は20歳から5回も違う個所の癌になっている人だ。 

 初めて手術した時に痛くてうなっているときに声をかけてくれたのだった。

「どこの手術なの?」乳がんで胸なのと答えると

「何回目?」と聞いた。 初めてよと言うと

「私なんてねー5回目!」本当に驚いた。

 それから病院で会うたびに彼女の話を聞いて、勇気をもらった。

 そのケイシーが「おめでとう」と電話をくれたのだった。

「ケイシー本当にありがとう。泣いてた私を励ましてくれたよね。手術の後で」

「どういたしまして。ここまで本当によくやったわね!誇りに思うわ」と言ってくれた。

 病院に通っている間にいろいろな人と知り合いになる。 中には苦手な人もいたが、優しく思いやりのある人も多かった。 ケイシーの5回の癌の話には本当に勇気づけられた。


私も治療が終わったら、できるだけ多くの人に自分の話をしようと思った。

ダチョウのひなのような最初の毛。放射線治療

 抗がん剤も終わり、落ち着いた日々が戻ってきた。 

 まだ髪も生えてないけれどほっとしている。抗がん剤は脳にも影響を与える。

 ケモブレインと呼ばれて、人によっては過去の記憶が飛んだり、忘れやすくなったりする。

 私の場合は数字が一切暗記できなくなってしまった。 もともと苦手だったけれど電話番号などどうしても暗記できない。これは一年以上続いたし、今でも苦手だ。

 息子はハワイの小学校に通いだしていた。何度も泣いて教室に入れない朝が続いたが、ようやく泣かないで学校に行けるようになった。一安心だ。 

 強くなってきた。優しい素晴らしい先生に出会えたことが大きかった。そっと見に行くと皆で元気に校庭を走っていた。 もう大丈夫だ。 


 私も足が痛いくらいで家事などもできる。宿題を見て、夜は本を読んであげられる。これも以前は毎日していたことで、治療中はできなかったことだ。だんだん元のママに戻っていくのは嬉しかっただろうと思う。 私もうれしい。


  少しづつ元の生活に戻ればいい、そう思っていたのだが病院であるドクターにそういうと

「まったく同じ生活には戻れないわ、病気をしたんだから」という。

 少しがっかりしたけれど、確かにその通りだ。 まったく同じ私ではないけど、もっと良くなればいいのだから。
まだ足はすごく痛むが食事の味もして、吐き気も胸やけもしない。これは本当にうれしいことだった。


 そして最後の抗がん剤から約2週間後、頭に産毛が生えてきた。ぽわぽわの小鳥の生え始めの毛のようだ。 ダチョウのひなのようでもある。 赤ちゃんはこういう髪の毛が最初生えるけれど、あの感じだった。 

嬉しかったけれど、ちゃんとした髪の毛は生えてくるのだろうかと心配でもあった。






放射線治療

 8月の終わり。ついに放射線治療が始まった。

 ものすごく簡単に言ってしまうと、残っている可能性のある癌細胞を放射線で(焼いてしまう)治療だ。
放射線は大好きなドクターSなので会えるのが楽しみだった。

 一日目なので写真を撮り、放射線の位置を決めるのに1時間かかった。 ずっと裸なので寒くなってしまった。左腕も上げっぱなしで痛い。 胸に直接マジックでたくさん線を引かれた。

 それだけでも驚いたのだが、なんと放射線を当てるしるしを小さな点をタトゥーで入れた。 3つの点。ちくりと痛みがあった。

 日本の本には(マークを消さないでください)と書いてある。タトウーでマークというのはいかにもアメリカだと思った。

 ほくろよりも小さいが1つは今でも残っている。消す人もいるけれど、私はずっと取っておこうと思った。

なんだか誇らしいようなきがするのだ。

「しっかり焼かないとね、あなたの癌は結構攻撃的なのよ!」といって、なぜか私に怒る顔をする。 思わず笑ってしまった。 

 毎回何か面白いことを言ってくれる。 夫も息子もこの先生が大好きになった。


 この放射線治療は33回続く。 SFに出てくるような白い大きな機械の中に入るのでなんだか怖い。

 なんと毎日これが続くのだ。

 受付で名前を言い、服を脱いで紙のチョッキのようなものを着て用意をする。 技師が来て放射線の機械を操作する。 30分ほどだけど毎日なので大変だった。

 数回目ですでに疲労感がでてきた。 これは抗がん剤が残っているせいなのか、放射線のせいなのかわからなかった。 今度の副作用は腹痛だ。お腹をこわす。

 最初は痛くもかゆくもないので喜んだのだが、回数を重ねるうちに日焼けのようにな
り、そのうちやけどのようになった。

 治っていないがたがたな切り傷の上からやけど。 もう本当にうんざりだった。

 めげそうになった時は、胸の中に残っている癌も焼けてすごいダメージなんだ、と思うことにした