2017年9月29日金曜日

泣く子供 ドラクエの効果



 6回目の抗がん剤も終わり、あと2回。

 息子の精神状態はまだ安定しておらず、時々3歳くらいでやめていたマミーという言葉で私を呼んだりしていた。

大泣きしながら「マミーマミー」と声を限りに叫ぶ。

 頭の中の映像は(お墓の前で最高なママだったといって泣いているところ)だという。 

 それから

「真っ暗の中をママがどんどん小さく遠くに行って消えちゃうの」といつも言う。


 その話を聞いて紙にその絵を描いて破らせた。 

 「ほらー、もうなくなっちゃったよ」

 「それは絵だから……」

 「じゃあ目の前のママを見て!すごく元気でしょう?」と変な顔をする。

 ちょっとだけ笑う息子。

 どうしたら気持を楽にしてあげられるだろうか。



 
 病院で小さい子供に抗がん剤の説明をしていた。 

 お母さんの乳がんの話
 
 抗がん剤って何?どんな薬? 

 そして抗がん剤をする部屋を見せてくれたのだが、逆効果だったような気がする。


 渡された絵本もお母さんが抗がん剤をして髪の毛が抜ける話だった。

 頼まれて何回か読んだのだが、あまり効果はなかったような気がする。

 ある日また突然の号泣が始まったときに


 「あのね、抗がん剤はね、すっごく強い武器なんだよ、ラスボスなんてすぐやっつけちゃうバトルアックスなんだよ!
と当時2人でやっていたドラクエの中の武器の名前を使った。

 「え!そうなの? 強い武器なの? でも、がんも武器持ってる?どんな武器?」と聞くので、間髪入れずに


 「こんぼう!」


 一番弱い武器の名前を言ったら、はじめて晴れ晴れと笑った。








13年も痛む神経 変わっていく外見



 手術した側の左胸の骨の部分が痛み出した。

 乳がんの転移で一番多いのは骨転移だそうだ。 どきりとした。

 抗ガン治療中なのに、そんなことあるのだろうか? 腫瘍化の医者に話を聞きに行く。

 念のために骨の内部を調べる(ボーンスキャン)をすることになったが、手術側の神経が痛んでいるそうで、よくある症状だそうだ。何年も痛みが残るらしい。

 13年後の現在もまだ痛むことがある。神経がずたずたになっているのだと思う。現在のことを言うと、時々骨の近くがきりきりと痛み、切り傷も天候などによって痛む。

 時代物のドラマなどで浪人が「こんな寒い日は刀の傷が痛む」というセリフがあるが、あれはこんな感じなのかなと思った。

 この頃は何か異常なのではととても心配だった。 情報も今より少なかったからだ。いまではインターネットでも探せばすごく情報が集められるけれど、この頃はあまりにも少なかった。

 胸の痛みはあったが、タキソールという抗がん剤は足の痛みだけで、食事の味も戻ってきた。それが飛び上がるほどうれしかった。食べたものの味がする喜びは、この経験をしなければわからなかっただろうと思う。

 ただ、足は眠れないほど痛むときもあった。それがタキソールのと特徴なのだそうだ。あとの副作用は腹痛、胸やけなどやはり内蔵関係だ。 

 やっと普通の夢を見た。カラフルだったが怖くもなく気持ち悪くもなく普通の夢だった。 

ずっと悪夢だったので、嬉しかった。自分の中に希望が生まれてきたからだろうか?

(希望)はとても大事なことだと思う。 生きる力が変わってくる。

 



 ハワイに来てもうすぐ5か月になる。 

 ずっと手術と抗がん剤の治療だった。


 あっという間に人生が変わった。 

 見かけも、もちろん変わったが、性格も変わったと思う。

 最初の苦しい抗がん剤が終わってからは、普通のことができるようになり、息子とも毎日ゲームなどして遊んでいる。

 少し元気になったママと遊べるからか、息子も泣くことが少なくなってきた。

 今回の抗がん剤は副作用は前よりも楽だけど、飲む薬が増えた。前日に飲まなければいけない薬を飲み忘れて受けられないことがあった。血液検査も頻繁にある。

なんといっても抗がん剤はもともと毒ガスから生まれたもので、正常な細胞も殺してしまう。前日に飲む薬を忘れたので亡くなった人がいると聞いた。

 それから注射を何本も刺されて針山の気分だ。 手術をしていらい右腕にしか刺せないので穴だらけだ。


 今回の抗がん剤は普通の生活が可能なので、買い物にもよく出かけていた。 

 時々帰ってから涙が止まらない時があった。 健康な人であふれている街に出ると自分だけが病気なような気がする。


 顔はむくんでどす黒い。かつらをかぶり、胸を隠すためのシャツを着ていて暑い。体重も増えたのでショーウインドウに映った自分の姿を見てぎょっとすることもあった。

 みじめで悲しくなる。

 「ママ変わったね」と思わず息子に言ってしまったら、

 「ノー変わってないよ。同じハートだから」と言ってくれて涙が出た。私が昔言ったことを覚えていてくれた。

 

 抗ガン剤を受ける部屋が変わっていた。 大きな病院で少し迷った。 新しくできだ病室だ。ここには子供が入れない。

 この時にカウンセラーが親のがんの説明などをしてくれたのだが、これが良くなかったような気がする。 やはりあまり現実を突きつけるのではなく、オブラートに包んで話したほうがいいのかもしれない。

 アメリカは昔からがんを患者に告知していたそうだ。どんなに末期でも告知する。 それから子供にもきちんと説明する。

 それも良し悪しではないかと思う。特に小さい子供には辛いことだろう。本当のことだとしても。どうすれば子供の不安を取り除いてあげられるだろうかとそればかり考えていた。


 最近やっと前向きに考えられるようになった。 足が痛く引きずっているが、生活のほとんどのことができる。癌に打ち勝ちたい。




注 今では抗がん剤の副作用もおさえられる良い薬があると聞いています。医療は発達していて、14年前と今では治療も全く違うので、恐れずに治療してくださいね。




ついに最後の抗がん剤 5回の癌を生き延びたケイシー


 

 最後の抗がん剤の前に基地の施設からビーチエリアののタウンハウスへ移れることになった。こんどはここに3か月ほどいることになる。 

 日本からの荷物はコンテナに入ったまま港に保管してあった。 これは家が建ったら運び込まれることになっている。


 息子は3年生からここの小学校へ通うことになった。ハワイでは8月の初めごろから新学期になっていたので、夫が連れて行ったのだが、やはり初めはクラスに入れなかった。

 夫が一日付き添った。

 闘病中の引っ越しは足を引きずりながらで大変だったが、やることがたくさんあって、嬉しかった。タウンハウスは2階があったので2階の寝室にタオルやシーツや洋服を一日運んだ、

 施設では借りていたお皿やキッチンのものが、ここにはないので少し買った。きれいなタウンハウスで普通の生活ができることが本当にうれしい。

 ついに最後の抗がん剤をする。


 うれしくて叫びたいくらいだ。 

 前日の腫瘍科医は忙しく機嫌も悪く、書類もなくし、リンパ腺の転移の数も間違えていた。 自分で見つけたくせにと思う。 この人に会うと余計に具合が悪くなってしまう。


 前夜と早朝に薬を2回飲み、抗がん剤室へ。

 大きい部屋にうつってから2回目だ。たくさんの人がいる。 この人たちは皆癌という病気と闘っている。 顔色が皆似ている。 灰色のようなどす黒い感じになる。





 最後の抗がん剤治療ということで、病院で知り合いになったケーシーが電話をくれた。
この女性は20歳から5回も違う個所の癌になっている人だ。 

 初めて手術した時に痛くてうなっているときに声をかけてくれたのだった。

「どこの手術なの?」乳がんで胸なのと答えると

「何回目?」と聞いた。 初めてよと言うと

「私なんてねー5回目!」本当に驚いた。

 それから病院で会うたびに彼女の話を聞いて、勇気をもらった。

 そのケイシーが「おめでとう」と電話をくれたのだった。

「ケイシー本当にありがとう。泣いてた私を励ましてくれたよね。手術の後で」

「どういたしまして。ここまで本当によくやったわね!誇りに思うわ」と言ってくれた。

 病院に通っている間にいろいろな人と知り合いになる。 中には苦手な人もいたが、優しく思いやりのある人も多かった。 ケイシーの5回の癌の話には本当に勇気づけられた。


私も治療が終わったら、できるだけ多くの人に自分の話をしようと思った。

ダチョウのひなのような最初の毛。放射線治療

 抗がん剤も終わり、落ち着いた日々が戻ってきた。 

 まだ髪も生えてないけれどほっとしている。抗がん剤は脳にも影響を与える。

 ケモブレインと呼ばれて、人によっては過去の記憶が飛んだり、忘れやすくなったりする。

 私の場合は数字が一切暗記できなくなってしまった。 もともと苦手だったけれど電話番号などどうしても暗記できない。これは一年以上続いたし、今でも苦手だ。

 息子はハワイの小学校に通いだしていた。何度も泣いて教室に入れない朝が続いたが、ようやく泣かないで学校に行けるようになった。一安心だ。 

 強くなってきた。優しい素晴らしい先生に出会えたことが大きかった。そっと見に行くと皆で元気に校庭を走っていた。 もう大丈夫だ。 


 私も足が痛いくらいで家事などもできる。宿題を見て、夜は本を読んであげられる。これも以前は毎日していたことで、治療中はできなかったことだ。だんだん元のママに戻っていくのは嬉しかっただろうと思う。 私もうれしい。


  少しづつ元の生活に戻ればいい、そう思っていたのだが病院であるドクターにそういうと

「まったく同じ生活には戻れないわ、病気をしたんだから」という。

 少しがっかりしたけれど、確かにその通りだ。 まったく同じ私ではないけど、もっと良くなればいいのだから。
まだ足はすごく痛むが食事の味もして、吐き気も胸やけもしない。これは本当にうれしいことだった。


 そして最後の抗がん剤から約2週間後、頭に産毛が生えてきた。ぽわぽわの小鳥の生え始めの毛のようだ。 ダチョウのひなのようでもある。 赤ちゃんはこういう髪の毛が最初生えるけれど、あの感じだった。 

嬉しかったけれど、ちゃんとした髪の毛は生えてくるのだろうかと心配でもあった。






放射線治療

 8月の終わり。ついに放射線治療が始まった。

 ものすごく簡単に言ってしまうと、残っている可能性のある癌細胞を放射線で(焼いてしまう)治療だ。
放射線は大好きなドクターSなので会えるのが楽しみだった。

 一日目なので写真を撮り、放射線の位置を決めるのに1時間かかった。 ずっと裸なので寒くなってしまった。左腕も上げっぱなしで痛い。 胸に直接マジックでたくさん線を引かれた。

 それだけでも驚いたのだが、なんと放射線を当てるしるしを小さな点をタトゥーで入れた。 3つの点。ちくりと痛みがあった。

 日本の本には(マークを消さないでください)と書いてある。タトウーでマークというのはいかにもアメリカだと思った。

 ほくろよりも小さいが1つは今でも残っている。消す人もいるけれど、私はずっと取っておこうと思った。

なんだか誇らしいようなきがするのだ。

「しっかり焼かないとね、あなたの癌は結構攻撃的なのよ!」といって、なぜか私に怒る顔をする。 思わず笑ってしまった。 

 毎回何か面白いことを言ってくれる。 夫も息子もこの先生が大好きになった。


 この放射線治療は33回続く。 SFに出てくるような白い大きな機械の中に入るのでなんだか怖い。

 なんと毎日これが続くのだ。

 受付で名前を言い、服を脱いで紙のチョッキのようなものを着て用意をする。 技師が来て放射線の機械を操作する。 30分ほどだけど毎日なので大変だった。

 数回目ですでに疲労感がでてきた。 これは抗がん剤が残っているせいなのか、放射線のせいなのかわからなかった。 今度の副作用は腹痛だ。お腹をこわす。

 最初は痛くもかゆくもないので喜んだのだが、回数を重ねるうちに日焼けのようにな
り、そのうちやけどのようになった。

 治っていないがたがたな切り傷の上からやけど。 もう本当にうんざりだった。

 めげそうになった時は、胸の中に残っている癌も焼けてすごいダメージなんだ、と思うことにした

放射線治療






放射線治療

 8月の終わり。ついに放射線治療が始まった。
ものすごく簡単に言ってしまうと、残っている可能性のある癌細胞を放射線で(焼いてしまう)治療だ。

 放射線は大好きなドクターSなので会えるのが楽しみだった。

 一日目なので写真を撮り、放射線の位置を決めるのに1時間かかった。 ずっと裸なので寒くなってしまった。左腕も上げっぱなしで痛い。 胸に直接マジックでたくさん線を引かれた。

 それだけでも驚いたのだが、なんと放射線を当てるしるしを小さな点をタトゥーで入れた。 3つの点。ちくりと痛みがあった。

 日本の本には(マークを消さないでください)と書いてある。タトウーでマークというのはいかにもアメリカだと思った。

 ほくろよりも小さいが1つは今でも残っている。消す人もいるけれど、私はずっと取っておこうと思っ
た。なんだか誇らしいようなきがするのだ。

「しっかり焼かないとね、あなたの癌は結構攻撃的なのよ!」といって、なぜか私に怒る顔をする。 思わず笑ってしまった。 

 毎回何か面白いことを言ってくれる。 夫も息子もこの先生が大好きになった。
この放射線治療は33回続く。 SFに出てくるような白い大きな機械の中に入るのでなんだか怖い。

 なんと毎日これが続くのだ。
受付で名前を言い、服を脱いで紙のチョッキのようなものを着て用意をする。 技師が着て放射線の機械を操作する。 30分ほどだけど毎日なので大変だった。

 数回目ですでに疲労感がでてきた。 これは抗がん剤が残っているせいなのか、放射線のせいなのかわからなかった。 今度の副作用は腹痛だ。お腹をこわす。

 最初は痛くもかゆくもないので喜んだのだが、回数を重ねるうちに日焼けのようになり、そのうちやけどのようになった。
治っていないがたがたな切り傷の上からやけど。 もう本当にうんざりだった。
めげそうになった時は、胸の中に残っている癌も焼けてすごいダメージなんだ、と思うことにした。




9月に入っていた。ハワイに来て6ヶ月間ずっと治療をしている。
家を引っ越すことが出来た。 息子は地元の小学校に通うことが出来た。
そして放射線治療も始まった。

 だんだん抗癌剤が抜けてきたようだ。 髪の毛はまだフワフワの産毛だ。 眉毛のあった場所がうっすら青くなってきた。 それから嬉しいのは短い睫毛がプツプツと生えてきていた。 はじめて見た時は飛び上がるほど嬉しかった。睫毛のない目はなんとも言えず、奇妙だ。

 私のDNAはここに眉毛が睫毛が生えていたことを覚えていてくれた。嬉しさと同時になんだか神秘というか、不思議な気もした。
病気をする前は髪を切ったら伸びる、眉毛を抜いたら生えるということが当たり前だと思っていた。でも当たり前だと思っていたことは実はすごく複雑な身体の中のしくみなのだと気がついた。


 毎日6時半に起きてランチを作り、朝食を作り息子を送り出し放射線治療に行く日々だった。毎日放射線があるので、ほぼ同じような毎日だ。

 10回目頃からかなり疲れが出てきた。 足の痛みはなくなったが手足はまだしびれていた。抗癌剤はなかなかしつこく身体の中に居座っていた。

 ファーストフードも相変わらず多かったが、家で作るときはなるべく健康的にしようと思っていたが、それでも食材に限りがあるので洋食中心になってしまう。
肉が多いのでなるべくサーモンなどを買ったり、煮物ができなくてもせめて温野菜をとブロッコリーやアスパラガスを毎回食べていた。

 息子の精神状態も安定してきた。 毎日宿題を見て、学校の話をしている。 ちゃんと話を聞いてあげられる母親でいたいと思う。

 ある日放射線が終わってドクターと話しをしていたら抗がん剤の部屋から呼び出しを受けた。何事かと思ったら新しい抗がん室に患者の手形を押すのだという。 

 私とキャリーは手に平にカラフルなペンキを塗られて手形を塗られる。 何の記念もなかったので嬉しかった。 奥の方にペタッと手形を押して日本語でありがとう。と書いた。キャリーは何か英語で書いていた。 最初は少なかった手形が行くたびに多くなっていって、壁一面の手形は正直不気味だなと思った。 一通り見渡すと胸の型を押している人までいた。



 放射線治療でしょっちゅう病院へ行っていたのでキャンサーサバイバーの会に顔を出して見た。

 手術が終わってすぐの頃に行ってみたのだが、どうしても(サバイバー)という気持ちになれずに続けることが出来なかったのだ。 自己紹介をするのだが、皆私よりもステージが低いようなきがして「だからサバイバーなんじゃないの?」とふてくされたことも会った。

 キャリーもあんなに泣いていたけれどステージ1だっだ。抗がん剤は4回だけで放射線もなしだ。彼女のために喜ぶべきなのに

 「そんなに軽いんだ」とショックを受ける自分がいた。
誰かと比べてもしかたがないことはわかっていたけれど、いつも自分よりも(悪い乳がん)でも生きている人を探していた。

 放射線治療は途中まで、痛くも痒くもなく、同じことの繰り返しだった。
だいたい朝息子を学校に送って行ってから病院へ行く。受付で名前をいい、着替えて放射線室へ。寝たまま左腕を伸ばして白い大きな機械を通る。

 20回を超える頃から副作用も強くなってきた。 だるさと腹痛だ。 それから肌もどんどん焼けてきた。 手術の痕を中心に四角く黒くなってくる。

「いい感じにトーストになってるわ~」とドクターSは笑う。 
「ちょっと痛痒くなってきました」
「うん、やけどと同じだからね。塗り薬だすわ」
このドクターとのアポイントメントは楽しみだった。毎回夫と笑いながら部屋を出ていけた。どれだけ助けられたわからない。 息子とも話を合わせてくれて、本を貸したりもしていた。
「この本すごくおもしろいよ、貸してあげるね」なんて言ってる。 ドクターも
「わあ、うれしい! ねえナルニアって知ってる?」
「ダッドが読んでくれてたことある!好き!」
「私もすごく好きなの。お礼にビデオあげるよ、古いのだけどね」と棚から出して渡してる。 

 ドクターSの大きい暖かいハートは皆の傷を癒していった。


幻肢痛と冒険の途中の勇者


 この頃ようやく坊主頭になってきた。 

 まだ1センチもない。 まつげはだいぶ生えてきたビューラーでつかめるくらい生えてきたので嬉しい。

 眉毛も短いけれどくっきり太くウイッグを取ると、いなせなおっさんだ、


 引っ越しをしてからネットの買い物もできる。 日本の本も買うことができる。これは本当に嬉しい。

 一番の問題は息子の学校だった。

 息子は2年生のほとんどを学校に行けなかった。編入した学校で虐めにあっていた。

 ハワイは旅行で行くには夢のようなパラダイスだが、住んでみてわかったのは、かなり特殊なところだということだ。 よそ者は受け付けない雰囲気がある。地元の人達は一見とてもフレンドリーだけど、ほんとうの意味で打ち解けていなかったと思う。

 特に私達のいたところでは(日本人)と(白人)はかなり嫌われていた。白人でも肌が白ければ白いほどいじめられる。本土とは逆差別だった。

 そして成績が良いものほど嫌われる。 

 日本人と白人のハーフ。 肌の色はロシア系の父親の血を引いて真っ白だ。
それから時々取っていた良い点数の答案用紙をぐちゃぐちゃに丸めて捨てていた。

 後から軍関係の学校に入れたけれど、この頃は本当に悩みだった。
2年生のほとんどをホームスクールという家での勉強にしていた。

 テキストのようなものをして、日本語もこの時教えた。 

 
 それから息子と毎日ドラクエをする。 ひらがなはだいぶ覚えてきた。



(やくそう)とか(たいまつ)とかあまり役には立たない単語だけど、日本語に興味を持ってくれて嬉しい。昔やったことがあるので、ボスの倒し方など知っているので

「わ~!!ママすごいね!」と尊敬される。こんなことでも、人生なんでも経験だなと思った。


   ゲームをしながら、さり気なく自分の考えを伝えた。


「負けそうになったら逃げ出したって良いよ、やり直せばいいよ」

「雑魚は無視して大きいボスだけ倒せばいいよ」

「皆勇者なんだよ、冒険の途中の勇者なんだよ」


 放射線27回目からドクターがマークをあちこちにつけ始めた。 

 広範囲に当てるのではなくピンポイントで当てるそうだ。 傷口を中心に強めに当てる。

 放射線の方は副作用も穏やかなので、買い物にもいけるし料理も毎日作っていた。家事ができるのが嬉しかった。
ただ、後半になると脇の下まで赤くなって皮が剥けてきて痛くなってきた。


▲   ▲   ▲



 10月になっていた。

 長い長い放射線治療33回がやっと終わる。 

 最後の日にスタッフの寄せ書きやチョコレートの入ったバッグを風船をもらった。 3大治療が終わりすごく嬉しい!!

 7ヶ月長かった。 手術は精神的にも肉体的にも辛かった。抗癌剤は一番きつかったと思う。次々に襲いかかる副作用との戦いの日々だった。

 手術の後には幻肢痛も経験した。幻肢痛とは例えば手術で足を切断して、ないはずなの足が痛むという現象だ。


 ないはずの胸が痛い。

 思わず手を当てようとしてもそこには胸がない。

 でも確かにそこが痛い。 

 そしてなんとないはずの胸から母乳が出ている気がするのだ。

 それは気のせいという感じではなく、本物の感覚だった。もう絶対にできないことを胸が恋しがっているようだった。これは痛みよりも精神的にあまりにもあまりにも辛かった。


 

 放射線治療も放射線をかけたところが爛れてしまい、皮がむけている。 まさにやけど状態でズキズキヒリヒリして痛くて眠れない。

 ケロイドになっているところもある。夜軟膏を塗って、大きいガーゼを当てる。そうしないとパジャマに血や皮膚がついてしまうのだった。くっついてしまった布を取る時の痛さは言葉で表せなかった。

 これはかなり長い間続いた。

 傷はいつかは治る。痛みはいつか収まる。と自分に言い聞かせていた。 

 この放射線最後の日に腫瘍科の医者Bのアポイントメントもあった。

 タモキソフィンというホルモンブロック剤を5年飲むことになった。 私の乳がんは女性ホルモンで増えるタイプなので、その女性ホルモンをブロックしてしまう薬なのだそうだ。 


 女性らしくなるために飲む人もいるホルモン剤を抑えてしまうとは。副作用を聞いて、またがっかりした。

 体重の増加、肌荒れ、髪の毛は薄くなる。骨がもろくなる。

 生理も止まる人が多いそうだ。無理に閉経のような感じになる。更年期障害も起こるという。

 ほとんど治療は終わったと思っていたけど、まだ戦いの途中だった。


 学校でのいじめ 元がん患者からサバイバーへ


 病院通いが終わり、やっとのんびりできる。 

 家に居る時は日本から送ってもらったビデオを見て過ごした。息子は毎日学校へ行っている。 せっかく通えている学校だけど、色が白い息子は今度は虐めにあっていた。

 本土とは反対の差別で肌が白いといじめられる。 こんな楽園のようなハワイだが、学校は荒んでいた。 今度こそと思っていたのに本当にがっかりした。少しでも改善されるように体調に良い日はボランティアに行くことにした。

 ハワイは高級な地区と貧しい地区にはっきりと分かれている。 貧しい地区には犯罪もとても多い。バケーションで遊びに行くハワイとは全く違う一面を住んでみて見ることになる。

 ある日、レースフォーキュアの1マイルウオーキングに参加した。

 5時に起き、ワイキキの会場へ。参加費を払いTシャツと帽子を受け取る。
Tシャツは患者はピンク色。サポートする人は白いシャツだ。 ゼッケンに色々な思いが書いてある。 (母のために)(大事な友だちのために)読んでいるうちに目頭が熱くなる。

 驚いたことにものすごい人数のピンクのシャツの女性がいた。 

 これだけの人が皆乳がんと闘ったのだ。 そしてその何倍もの白いシャツの人。 これだけの人が気にかけサポートしてくれている。 サバイバーの会の人達も来ていた。もちろんピンクのシャツだ。立ち話をする。

 こんなにも沢山の人。 私はちっとも1人じゃなかった。 

 そしてピンクのシャツを着て歩く私はものすごく特別な気持ちがした。

 両側には白いシャツの夫と息子が一緒に歩いてくれている。

 この日、私ははじめて(元乳がん患者)から(サバイバー)になった。

 イガグリ頭に直接帽子をかぶる。 ゴールをして、首にレイをかけてもらい、サバイバー全員で写真を撮った。

はじめてがんと戦った自分を誇りに思えることが出来た。





 11月になり、自分たちの家が建ったので、また引っ越しをする。

 トラックを借りてタウンハウスからの荷物を運びいれた。 翌日は今まで港に保留状態だったコンテーナーの荷物がやっときた。ものすごい量の荷物だ。 3月から8ヶ月ぶりに自分の持ち物と対面した。 箱の外側に書いてある字を読みながら、キッチンや2階に箱を運ぶ。

 息子も大喜びだった。 自分の(もの)私もとても嬉しいけれどあまりの量の多さに途方に暮れる。

 洋服の箱を開けてみたら冬物がぎっしりでがっかりした。 ここではいらないものだ。かなり処分しないとクローゼットにも入りきらないと思った。

 必要な物を買ったり、整理したり忙しいけれど人間らしい生活はすごく嬉しかった。

 しばらく忙しい日々が続いた。 新しい家でクリスマスパーティーもした。 楽しいクリスマスも過ごせた。お正月の食品を日本食品店に買い出しにも行った。 

 大晦日には夫ママがカリフォルニアからまた来て、ハワイの風習の花火を一緒にする。 大晦日にはどこの家でも花火をして、もうすごく騒がしい年末年始を迎えるのだった。

 

 数カ月前の抗がん剤治療の頃と比べると夢の様な日々。 ハワイの生活を楽しみ見ながら再建手術を出来る日を楽しみに待っていた。

 放射線の痕もだいぶ痛くなくなってきたので、海にも入ることが出来た。 ハワイの海の浅瀬に横たわると傷が癒えてくる気がした。 

 この頃はまだウイッグをかぶっていた。 まだすごく短い。5センチ位だ。

 1月の終わり、キャリ-の家に行った時にはじめてウイッグを外した。 その髪型のまま学校にも行った。学校のボランティアを始めていたのだった。

 ショートから、ものすごいベリーショートにしたような感じででかけた。優しい先生は
息子の前で

「その髪型とっても素敵」と言ってくれたので、嬉しそうだった。

 学校のいじめのことは気になるが、良い先生に巡り会えて幸運だった。


 この学校は地元の子供ばかりが来る学校で、日本人と白人の子供は息子だけだった。白人は(ハオレ)と呼ばれ差別される。肌が白いほどいじめられる学校だったが、本土から来た先生も金髪の白人で、よく気をつけてみてくれていた。
 
 最初は「学校に行っている間にママがいなくなってしまうかもしれない」という妄想に悩まされていた息子は約1ヶ月教室の前で泣いて中に入ることができなかった。今写真を見ると見事に1人だけ白い。そして泣き虫だった。それから、アメリカの小学校は両親どちらかが迎えに行くのだが、ほとんど寝たきりの私にはそれができず、クラスメイトのお母さんに頼んでいた。

 そんなことで格好のいじめの的になっていた。
 
 この時の先生がいつも気にかけ、優しい言葉をかけてくださったが、3年生が終わるとアメリカ本土に帰ることになってた。4年生で先生が変わってから、学校の状態はさらに悪くなり、軍関係の学校に編入することになったのだった。
 
 息子のこの頃のことを思うと今でも胸が痛む。



▲ ▲ ▲


 この頃の私は抗癌剤と放射線で歯がボロボロになっていた。上の前歯6本ともクラウンにした。

 ウイッグを取ったら、ハワイの風を感じられる。 暑いハワイでウイッグをかぶった生活は思いのほか辛いことだった。

 歯も直したので笑うことができる。これで胸を再建できたらどれほど嬉しいだろうと思った。

 だが現実はなかなか厳しかったのだった。

 

 3月になった。 

 1年前の3日にハワイに来た。 息子は9歳になった。

 前半は寝てばかりで泣いてばかりの日々だったが、穏やかなハワイの気候に癒やされながら1年過ごすことが出来た。

 息子も急に泣いたりすることはなくなったが、学校で辛い思いをすることが本当に多かったのだ。とても好きだった日本を急に離れて誰も知らないハワイへ来て元気だった母親は手術を繰り返し寝込んでいる。

息子にとってのハワイは嫌な思い出ばかりだろうと思う。

 全部私のせいだと思うと、いたたまれない気持ちになった。