2017年9月29日金曜日

幻肢痛と冒険の途中の勇者


 この頃ようやく坊主頭になってきた。 

 まだ1センチもない。 まつげはだいぶ生えてきたビューラーでつかめるくらい生えてきたので嬉しい。

 眉毛も短いけれどくっきり太くウイッグを取ると、いなせなおっさんだ、


 引っ越しをしてからネットの買い物もできる。 日本の本も買うことができる。これは本当に嬉しい。

 一番の問題は息子の学校だった。

 息子は2年生のほとんどを学校に行けなかった。編入した学校で虐めにあっていた。

 ハワイは旅行で行くには夢のようなパラダイスだが、住んでみてわかったのは、かなり特殊なところだということだ。 よそ者は受け付けない雰囲気がある。地元の人達は一見とてもフレンドリーだけど、ほんとうの意味で打ち解けていなかったと思う。

 特に私達のいたところでは(日本人)と(白人)はかなり嫌われていた。白人でも肌が白ければ白いほどいじめられる。本土とは逆差別だった。

 そして成績が良いものほど嫌われる。 

 日本人と白人のハーフ。 肌の色はロシア系の父親の血を引いて真っ白だ。
それから時々取っていた良い点数の答案用紙をぐちゃぐちゃに丸めて捨てていた。

 後から軍関係の学校に入れたけれど、この頃は本当に悩みだった。
2年生のほとんどをホームスクールという家での勉強にしていた。

 テキストのようなものをして、日本語もこの時教えた。 

 
 それから息子と毎日ドラクエをする。 ひらがなはだいぶ覚えてきた。



(やくそう)とか(たいまつ)とかあまり役には立たない単語だけど、日本語に興味を持ってくれて嬉しい。昔やったことがあるので、ボスの倒し方など知っているので

「わ~!!ママすごいね!」と尊敬される。こんなことでも、人生なんでも経験だなと思った。


   ゲームをしながら、さり気なく自分の考えを伝えた。


「負けそうになったら逃げ出したって良いよ、やり直せばいいよ」

「雑魚は無視して大きいボスだけ倒せばいいよ」

「皆勇者なんだよ、冒険の途中の勇者なんだよ」


 放射線27回目からドクターがマークをあちこちにつけ始めた。 

 広範囲に当てるのではなくピンポイントで当てるそうだ。 傷口を中心に強めに当てる。

 放射線の方は副作用も穏やかなので、買い物にもいけるし料理も毎日作っていた。家事ができるのが嬉しかった。
ただ、後半になると脇の下まで赤くなって皮が剥けてきて痛くなってきた。


▲   ▲   ▲



 10月になっていた。

 長い長い放射線治療33回がやっと終わる。 

 最後の日にスタッフの寄せ書きやチョコレートの入ったバッグを風船をもらった。 3大治療が終わりすごく嬉しい!!

 7ヶ月長かった。 手術は精神的にも肉体的にも辛かった。抗癌剤は一番きつかったと思う。次々に襲いかかる副作用との戦いの日々だった。

 手術の後には幻肢痛も経験した。幻肢痛とは例えば手術で足を切断して、ないはずなの足が痛むという現象だ。


 ないはずの胸が痛い。

 思わず手を当てようとしてもそこには胸がない。

 でも確かにそこが痛い。 

 そしてなんとないはずの胸から母乳が出ている気がするのだ。

 それは気のせいという感じではなく、本物の感覚だった。もう絶対にできないことを胸が恋しがっているようだった。これは痛みよりも精神的にあまりにもあまりにも辛かった。


 

 放射線治療も放射線をかけたところが爛れてしまい、皮がむけている。 まさにやけど状態でズキズキヒリヒリして痛くて眠れない。

 ケロイドになっているところもある。夜軟膏を塗って、大きいガーゼを当てる。そうしないとパジャマに血や皮膚がついてしまうのだった。くっついてしまった布を取る時の痛さは言葉で表せなかった。

 これはかなり長い間続いた。

 傷はいつかは治る。痛みはいつか収まる。と自分に言い聞かせていた。 

 この放射線最後の日に腫瘍科の医者Bのアポイントメントもあった。

 タモキソフィンというホルモンブロック剤を5年飲むことになった。 私の乳がんは女性ホルモンで増えるタイプなので、その女性ホルモンをブロックしてしまう薬なのだそうだ。 


 女性らしくなるために飲む人もいるホルモン剤を抑えてしまうとは。副作用を聞いて、またがっかりした。

 体重の増加、肌荒れ、髪の毛は薄くなる。骨がもろくなる。

 生理も止まる人が多いそうだ。無理に閉経のような感じになる。更年期障害も起こるという。

 ほとんど治療は終わったと思っていたけど、まだ戦いの途中だった。


 学校でのいじめ 元がん患者からサバイバーへ


 病院通いが終わり、やっとのんびりできる。 

 家に居る時は日本から送ってもらったビデオを見て過ごした。息子は毎日学校へ行っている。 せっかく通えている学校だけど、色が白い息子は今度は虐めにあっていた。

 本土とは反対の差別で肌が白いといじめられる。 こんな楽園のようなハワイだが、学校は荒んでいた。 今度こそと思っていたのに本当にがっかりした。少しでも改善されるように体調に良い日はボランティアに行くことにした。

 ハワイは高級な地区と貧しい地区にはっきりと分かれている。 貧しい地区には犯罪もとても多い。バケーションで遊びに行くハワイとは全く違う一面を住んでみて見ることになる。

 ある日、レースフォーキュアの1マイルウオーキングに参加した。

 5時に起き、ワイキキの会場へ。参加費を払いTシャツと帽子を受け取る。
Tシャツは患者はピンク色。サポートする人は白いシャツだ。 ゼッケンに色々な思いが書いてある。 (母のために)(大事な友だちのために)読んでいるうちに目頭が熱くなる。

 驚いたことにものすごい人数のピンクのシャツの女性がいた。 

 これだけの人が皆乳がんと闘ったのだ。 そしてその何倍もの白いシャツの人。 これだけの人が気にかけサポートしてくれている。 サバイバーの会の人達も来ていた。もちろんピンクのシャツだ。立ち話をする。

 こんなにも沢山の人。 私はちっとも1人じゃなかった。 

 そしてピンクのシャツを着て歩く私はものすごく特別な気持ちがした。

 両側には白いシャツの夫と息子が一緒に歩いてくれている。

 この日、私ははじめて(元乳がん患者)から(サバイバー)になった。

 イガグリ頭に直接帽子をかぶる。 ゴールをして、首にレイをかけてもらい、サバイバー全員で写真を撮った。

はじめてがんと戦った自分を誇りに思えることが出来た。





 11月になり、自分たちの家が建ったので、また引っ越しをする。

 トラックを借りてタウンハウスからの荷物を運びいれた。 翌日は今まで港に保留状態だったコンテーナーの荷物がやっときた。ものすごい量の荷物だ。 3月から8ヶ月ぶりに自分の持ち物と対面した。 箱の外側に書いてある字を読みながら、キッチンや2階に箱を運ぶ。

 息子も大喜びだった。 自分の(もの)私もとても嬉しいけれどあまりの量の多さに途方に暮れる。

 洋服の箱を開けてみたら冬物がぎっしりでがっかりした。 ここではいらないものだ。かなり処分しないとクローゼットにも入りきらないと思った。

 必要な物を買ったり、整理したり忙しいけれど人間らしい生活はすごく嬉しかった。

 しばらく忙しい日々が続いた。 新しい家でクリスマスパーティーもした。 楽しいクリスマスも過ごせた。お正月の食品を日本食品店に買い出しにも行った。 

 大晦日には夫ママがカリフォルニアからまた来て、ハワイの風習の花火を一緒にする。 大晦日にはどこの家でも花火をして、もうすごく騒がしい年末年始を迎えるのだった。

 

 数カ月前の抗がん剤治療の頃と比べると夢の様な日々。 ハワイの生活を楽しみ見ながら再建手術を出来る日を楽しみに待っていた。

 放射線の痕もだいぶ痛くなくなってきたので、海にも入ることが出来た。 ハワイの海の浅瀬に横たわると傷が癒えてくる気がした。 

 この頃はまだウイッグをかぶっていた。 まだすごく短い。5センチ位だ。

 1月の終わり、キャリ-の家に行った時にはじめてウイッグを外した。 その髪型のまま学校にも行った。学校のボランティアを始めていたのだった。

 ショートから、ものすごいベリーショートにしたような感じででかけた。優しい先生は
息子の前で

「その髪型とっても素敵」と言ってくれたので、嬉しそうだった。

 学校のいじめのことは気になるが、良い先生に巡り会えて幸運だった。


 この学校は地元の子供ばかりが来る学校で、日本人と白人の子供は息子だけだった。白人は(ハオレ)と呼ばれ差別される。肌が白いほどいじめられる学校だったが、本土から来た先生も金髪の白人で、よく気をつけてみてくれていた。
 
 最初は「学校に行っている間にママがいなくなってしまうかもしれない」という妄想に悩まされていた息子は約1ヶ月教室の前で泣いて中に入ることができなかった。今写真を見ると見事に1人だけ白い。そして泣き虫だった。それから、アメリカの小学校は両親どちらかが迎えに行くのだが、ほとんど寝たきりの私にはそれができず、クラスメイトのお母さんに頼んでいた。

 そんなことで格好のいじめの的になっていた。
 
 この時の先生がいつも気にかけ、優しい言葉をかけてくださったが、3年生が終わるとアメリカ本土に帰ることになってた。4年生で先生が変わってから、学校の状態はさらに悪くなり、軍関係の学校に編入することになったのだった。
 
 息子のこの頃のことを思うと今でも胸が痛む。



▲ ▲ ▲


 この頃の私は抗癌剤と放射線で歯がボロボロになっていた。上の前歯6本ともクラウンにした。

 ウイッグを取ったら、ハワイの風を感じられる。 暑いハワイでウイッグをかぶった生活は思いのほか辛いことだった。

 歯も直したので笑うことができる。これで胸を再建できたらどれほど嬉しいだろうと思った。

 だが現実はなかなか厳しかったのだった。

 

 3月になった。 

 1年前の3日にハワイに来た。 息子は9歳になった。

 前半は寝てばかりで泣いてばかりの日々だったが、穏やかなハワイの気候に癒やされながら1年過ごすことが出来た。

 息子も急に泣いたりすることはなくなったが、学校で辛い思いをすることが本当に多かったのだ。とても好きだった日本を急に離れて誰も知らないハワイへ来て元気だった母親は手術を繰り返し寝込んでいる。

息子にとってのハワイは嫌な思い出ばかりだろうと思う。

 全部私のせいだと思うと、いたたまれない気持ちになった。





乳房の再建手術を受けた。そして卵巣に腫瘍が……


3月30日

 ついにこの日再建手術をした。 

 全摘出手術をしてから約一年経っていた。

 左胸の皮膚の下にティッシュエクスパンダーという、簡単に言うと水風船のようなものを入れて組織を拡張する手術だ。 この袋の中に徐々に生理食塩水を入れて皮膚を伸ばしていく。

 色々調べると大変な手術ではないらしいのだが、私の場合皮膚が癒着していたのと皮膚も火傷のあとのケロイドに近かったのでとても時間がかかったそうだ。

 もしこれほどの時間や痛みをともなうと知っていたら、きっと手術はしていなかったと思う。

 再建前はすごくワクワクしていたので、とてもがっかりした。

 全摘手術というのは乳房を丸ごと切り取ってしまう手術だ。 そして上下の皮膚を縫い合わせる。男性と同じような平らな状態になるので皮膚が足りなくなる。

 なので、中にこういうものを入れて少しづつ皮膚を伸ばしていきスペースをつくるのだ。 伸びたら、この袋を取り出してシリコンに入れ替える。

 今回は楽な手術だと思っていたのだけど、すごく辛かった。 

 病院には10時間以上いてた。フラフラで歩けないので車いすで車まで移動した。 また立ち上がることも出来無い。帰ってからも30時間位ずっと吐き気が続いた。 やはり手術は手術なのであった。


 翌々日に病院へ行きチューブを抜いて検査をしてもらう。今回は調子が悪い。2回めの手術はとても楽だったので、ティッシュエキスパンダーを入れるだけだから今回も楽だろうと思っていたのだった。

 放射線から5ヶ月建っていたのだけど、皮膚はケロイドのような状態で、カチカチだ。
それを無理に伸ばそうとしているので、とても痛みがある。




5月3日  はじめて水を入れる

 病院でティッシュエクスパンダーの中に食塩水を入れた。

 針は思ったよりも痛かった。

 磁石になっていて水を注入する場所に針がくっつく仕組み担っているので、痛みはないと思い込んでいた。

 はじめての日は50CC入れる。

 一週間後に2回めの水入れをした。 この時70CC入れ、見かけがかなり変わってきた、これで合計120CCの整理食塩水が入った。

 そしてまた一週間後に3回め。 今回は50CC注入した。

 大分膨らんできたけれど、真ん中がボコンと言う感じに凹んでいる。入れるたびに胸骨が押されてとても痛む。

 昨日突然生理になった。 抗癌剤を始めてからはずっと止まっていたのだが、心配なくらいの出血をした。 病院に電話する。

 翌日近くの病院へ検査に行く。 

 OB(産婦人科)のドクターに会う。

 婦人科の検査をする。パップシミアといって組織をとってがん細胞の有無など調べるテストとまた長い針をさすバイオプシーをする。このバイオプシーはすごく痛いわけではなかった。

 なんともなければいいけど…この後、また突然出血がぴたりと止まる。 

 トリプラー病院にも電話。 明日は超音波(ウルトラサウンド)を受けることになった。

 本を読むとホルモンブロック剤のタモキソフィンは子宮がんになるリスクが高まるそうで、心配になる。

 骨の近くが痛むと骨転移か?頭がいたいと脳転移か?と心配ばかりしていた。この出血も今度は子宮がと心配になる。 

8時半に病院へ行く。 超音波検査はかなり長時間だった。

 この時に子宮には何も問題はなかったのだが、後から卵巣に腫瘍が見つかった。


夫の母も乳がんに


 
 5月の終わりになっていた。

 家の片付け、デコレーション。 食品買い出し、料理。 

 忙しいけれど、普通だけれど、とても幸せな日々だった。 家具を動かしたリ、買い換えたりしていた。

 そしてボランティアもあれこれ始めていた。基地の募金コンサートでホットドッグ売をしたりして、抗がん剤からではなく、本物の疲れを実感して嬉しかったりした。



 そんな穏やかな日々だったのだが、今度はあの夫の母親が乳がんになったというのだ。


 私の乳癌発覚から1年2ヶ月後。 そして毎年マンモグラフィーを受けていたのに、去年だけ受けなかったという。 その一年で彼女の癌は大きくなっていた。

 非科学的かもしれないが、自分から伝染ったような気がした。

 電話で話すと、先に抗癌剤をして縮小してから手術になるらしい。その後で摘出手術になるという。 当たり前だけど気落ちしていた。 

 アドバイスなどをした。同じ乳がんになるなんて、なんということだろうか。

 夏にカリフォルニアに行こうと思う。 
毎日電話をしあった。手術のこを話した。
夫ママはいつでもジョークを言う人で、こんな時にもふざけている。

 「ねえ、いっそ胸一つの手術の値段で二つとも取ってもらおうかな?2For1セールなんてね」と笑う。 二つで一個の値段のセールがよくあるからだ。

 「笑ってるけど、本気だよね。しないほうが良いと思うよ」

 「まっ平らにして大きな刺青入れるの、いいんじゃない?チョウチョとか」

 多分、半分ふざけているけど、これも本気だ。

 「ママ、だいじょうぶ?心配なんでしょう?」と聞くと

 「うん……でもね、あなたが先に乳がんになってくれたから、ちっとも怖くないわ」と言った。




◆ ◆ ◆

 


 エクスパンダーに水入れは最初は50CC それから70CC その後2回50づつ入れた。かなり痛くなってきていた。


 6月になり、息子は3年生が終わり、夏休みに入った。夏休みになる前にお世話になった先生にプレゼントと手紙を渡した。


 先生には乳がんのことを言わなかったのだけど、この手紙に書いた。

 学校に行くのが難しかったのは、私の乳がんの手術などがあったからだということ。

 前の学校はついに通えなかったけれど、先生がサポートしてくれたから通うことができたこと。

 そして心からありがとうと感謝の言葉を書いた。

 先生の目は真っ赤だった。


 
 夏休みに入り私も体調もいいし、ショートの髪の毛も生えているので、外に出て庭で水を掛け合ってよく遊んだ。 

 やはり健康が一番だ。 この夏日本へも行くことが出来た。 

 2週間だけだったが家族と友だちに会うことが出来た。この時の写真を見るとショートで天然パーマのようにくるくるした髪の毛だ。

 抗癌剤の後の毛質は変わることがあるとは聞いていたのだが、私の場合はくせ毛になった。量はとても少ない。

 キャリーは生えてきた頃、濃いブロンドになっていた。

 薄い色の金髪だったのだが、赤い感じの色になっていた。 髪の毛だけは性質が変わるというのは、とても不思議な気がする。

 日本では良いことも悪いこともあったけれど、やはり恋しい日本。帰ることが出来てとても嬉しかった。 胸の中に磁石が入っているので万が一セキュリティーに引っかかるといけないので、医者に手紙を書いてもらっていた。

 日本から帰り、今度はカリフォルニアに行こうとしていたのだけど、飛行機の空きがなく行くことが出来なかった。 このことは今でも後悔している。

 病気になって家族が誰も来ないと言うのは寂しかっただろうと思う。



乳がんボランティア 


 

 8月になり医者と相談してホルモンブロック剤を休むことにした。

 あまりにもイライラしたり落ち込んだりする。急にカッとなることもあった。この薬の副作用だった。気分の急激な変化それからホットフラッシュと呼ばれる、更年期障害もあった。

 オーブンに顔だけ突っ込んだようにカーっと暑くなり、汗が噴き出してくる。 これは痛みや吐き気よりはマシだけど、不愉快だった。

 水入れも50CCずつ入れているけど、まだボコンと凹んでいる。左胸だけがすごくうえのほうにあり、笑てしまうほどだ。これで良いんだろうかと心配になる。

 10月になりいつもの病院でボランティアをする。

 病院の前に机を並べてピンクリボン運動のサポートだ。 

 ピンクリボン運動とは乳がんの撲滅と早期発見の大切さを広める運動で10月になるとアメリカでは街にピンク色の商品が並ぶ。 この売上の何%かが乳がんの研究費になる。

 カタログを並べて、リボンを並べる。 それから人口の胸の中にニセ乳がんのしこり入っているもの。これを触ることで、どういう感じかを知ってもらうのだ。それから乳がんの大きさ別ののモデルもあった。

 興味本位で見ていく人ももちろん多く、中には乳がんのモデルを見て

 「うわ~気持ち悪い」という人もいた。

 「あなたの大切な人を守ってくださいね、せひ検査を」と言うと

 「え!うちのワイフは絶対にならないよ」と去っていった。

 それからある女性は乳がんのモデルを思いつめたようにじっと見つめている。近づこうとするとその女性の友人が後からやってきて、

「乳がん、2センチってこんなに大きいのね」と慰めるように言う。

 私はそこで4センチのモデルを指さし

 「私のはこれより大きかったんですよ!」と言うと、その女性ははっとして顔を上げる

 「でもあなたはすごく元気そう……」

 「そうですよ、一年半前にここで手術しました。だいじょうぶですよ」

 その女性の目に目に涙がうかぶ、嬉しいと言われる。最近告知された人なのだろう。

 「私がだいじょうぶなのだから、あなたも大丈夫ですよ」と使いたかったセリフを言った。

 私にしか出来ないことが確かにあるのだと思った。





 

  夫の母はこの頃抗癌剤をして、小さくした癌の手術をした。

 カリフォルニアに行けなかったのでお花を贈った。 レースフォーキュアのウオーキングにもまた参加した。 だいぶ髪も伸びてきて、体力も少し戻ってきた。

 この時は前日にボランティアもした。参加する人のギフトバッグを作る。

 各企業からのプレゼント。Tシャツなどを何百枚もたたんだ。 そして当日はレースとウオーキングだ。去年と同じように誇らしい気持ちになる。 集合写真のピンクシャツの戦士たちは皆同じように輝いて見えた。

 

 11月に入り最後の水入れをした。 

 これで全部で470CCはいったことになる。
すごくアンバランスだけど、シリコンというかウォーターバッグに入れ替えると小さくなるそうだ。釣り合いを取るために右胸もリフトアップするそうだ。

 皮膚はまだ固くパツパツな感じがする。毎日痛みがある。傷の方ではなくて助骨が押されて痛む。外側に伸びていかないで内側にめり込んでいる感じがする。


入れ替え手術 卵巣の影



 年末に予定していた手術を次の年まで伸ばした。 2005年の2月に入れ替えの手術をした。

 前日にいつものように血液検査、心臓の検査、麻酔医との予約。 当日は8時に病院入りして12時から3時間の手術をする。

 目が覚めるとやはりすぐに吐き気。 本当にこれが辛い。

 夕方6時頃にやっとふらふらと立ち上がり着替える。 家に帰ってもすごい吐き気だった。2日間こんこんと眠った。

 2日後に病院検査。 痛みは我慢できるけれど吐き気は辛い。

 病院で包帯を取る。ワクワクしていたのに、左胸はものすごく小さくなっていた。

 あんなに痛い思いをしたのに、と愕然とする。 右胸もリフトアップをしたので縮小されている。乳首周りもギザギザに縫い目がある。

 バランスも悪く、本当にがっかりだ。縫い目だらけで女フランケンシュタインみたいだ。

 いびつな形で何よりも厭なのはシリコンではなくウォーターバッグと呼ばれるもので、チャボんチャボンと音がする。これはあんまりではないだろうか?

 それでも傷が癒えたら好きな服が買えると嬉しい気持ちもある。真ん中がボコンとえぐれていたのでローカットの服は着られなかったからだ。 

 再建に向けてブラも買ってあった。つける日を楽しみにしていたのだ。

 

 3月に入り、ついにハワイに来て2年の歳月が流れた。


 息子は10歳になった。行っていた学校があまりにもいじめなどがひどかったので、軍の子供が多い学校に変わった。これは本当に正解で、もっと早くそうすればよかった。


 手術をして1ヶ月経ったのに、胸は全然普通じゃなかった。 傷は治ってきていたけれど、とにかく左胸がありえない形になっていた。もう手術はしたくなかったので、もう少し様子を見ることにした。

 そして、またショックな事が起こった。


 婦人科の検査で卵巣に影があると言われる。 多分腫瘍だろうと。


 乳がんをしていると卵巣がんおリスクも上がるので、良性か悪性かわからないけれど手術で切除したほうが良いと言われる。子宮も一緒にとった方がいい、と。
若い男性の医者が

「子供をもう生まないのならば必要のない器官だし」と言った。

 女にとって、そんなに簡単な話ではない。 また心配なことが増えた。
それでも、もう落ち込まない。

 立ち上がって戦おうと思う。負ける訳にはいかない。 もう夫と息子を泣かさないと決意していた。

 もし卵巣も癌だったら、叉抗癌剤をするのだろうか? 気落ちるするだろうけど、今はまだ前向きに考えようと思う。









再建手術は失敗した。私を捨てて欲しいと願う。



 気持ちは前向きだったが3月の終わりイースターの日に感染症で入院した。

 朝パジャマの胸の当たりが濡れていた。 驚いて見てみるとなんと縫い目が開いていた。小さい点のようだったが、中に黒く光っている物が見えた。 これはウォーターバッグだったらしいが、その傷から感染しているようだ。

 ERに行き、注射の時に血管に針が入らずに何回も刺されて思わず泣いた。後何回こんなこと繰り返すのだろうかと思いながら。 もう泣かないと思っていたのに。
抗生物質を入れながら翌日開いたところを2針だけ縫う。

 ドクターは「このまま様子を見るけれど、この後も悪いようならインプラントを取り出す」という。 放射線をしていたので革が固く薄くなっているらしい。

 また入院。 病院は嫌だ。夜もうるさくて眠れない。また4針縫ったけれどそこも痛い。今度は大きいホッチキスのような物を使う。具合が悪くなりナースコールをしても、しばらく誰も来てくれなかった。

 やっと退院してホッとしていたのだが1週間後になんと1センチ位大きく開いていた。ホッチキスの針もビラ下がっている。 皮膚が固く弾力もなく、古いゴムタイヤのようで、くっつかないのだった。

 翌日に入れ替える手術か、もしくは決めていた卵巣の手術の時に取り出してしまうか話し合うという。
もう嫌になり、情けなさと辛さといろいろな感情が押し寄せる。
こんなこと繰り返す私ではなく、新しいワイフと新しいママと楽しい人生を送って欲しい、と思ってしまう。

 やはり翌日4月5日に手術になった。 卵巣と子宮の手術は伸ばすことにした。もう手術は十分だ。今までで4回。 この2つを入れると6回になる。
この手術は小さいバッグに入れ替えるだけだったので時間も短く吐き気は全く無かった。これはすごく嬉しい事だった。手術の胸は痛かったけれど、すぐに家に帰ることが出来た。

 それでもやはり手術後なので頭の半分に砂が詰まっているような気分だった。ゴーゴーと音がする。眠いようなフラーっとした感じでいつもよりは、うんとましだった。

 翌日また病院へ。 包帯を取ると太いメタルのようなもので留めてある。このビジュアルはショッキングだ。数えたら11針ついていた。
同じ場所を4回も切ったことになる。
そして、それはまた失敗に終わったのだった。

 手術をして23日後。また穴が空いた。 

 どうしてもくっつかない私の皮膚。

 これはもう取り出したほうが良いと言われ、また落ち込んで泣いた。何度同じ所を切るのだろうか? これから子宮と卵巣の手術もある。

 手術から2日後包帯を取る。前にもましてえぐれた胸。 

 はじめて全摘手術をした時よりもショックだった。 あの時は「再建手術をして綺麗になるんだ」と希望があったから。


 この頃生きるってどういうことだろうと考えてしまっていた。 買っておいた綺麗なブラジャーが無駄になってしまったな、と。

 なにもかもいやになり、こんなボロ雑巾みたいになった私と別れて綺麗な奥さんをもらって欲しいと本気で思った。優しい女性に息子のお母さんになってほしいと思った。

 泣きながら「ボロボロの日本の中古車なんて捨てていいよ」と夫に言う。すぐに意味を理解した夫は新車より中古車が好きなんだなあと笑う。嬉しい言葉だけど私は精神的に限界だった。





 医者はまだチャンスはある。1年くらい待って今度は自家組織でしてみたらどうだろうと言ってくれたがもう手術はうんざりだった。 

 子宮と卵巣の手術もまだ決めかねていた。 

 卵巣の腫瘍を調べるのに1つだけにしようか?それともPetスキャン(より詳しくがんの有無を調べられる機械)をしてもらい手術はやめようか?と考えていた。

 その頃リンパ腺の転移数での生存率のグラフを見てしまい、凄くショックを受けた。

 4つ以上の転移は5年生存率は40から50% 10年はなんと15から30%だと。この数字はあまりにも私を打ちのめした。

 生きていく気力がどんどん失われていった。 

 そしてこの頃から人前に出られなくなってしまっていた。外に出ると汗が吹き出し、蕁麻疹が浮かんでは消える。絶望の気持ちは人をここまで変えてしまうのか。この症状は数年も続いた。

 腫瘍医を変えてもらった。特に卵巣の手術が決まってからは話しづらく、気分屋で男性のドクターとは話をしたくなかったのだった。

 6月に初めて新しい腫瘍医とのアポイントメントがあった。すごくプロなキビキビした女性だ。何でもはっきりと言う。

 そして手術をしたくないと言う話の時に

「もしも再発したら、あなたの命はすごく、すごく短いのよ」と脅かされる。 Very very shortと言った。


 一緒に病室にいた息子はわっと泣きだしてしまった。もうずっと精神的に安定していたというのに。 医者はすぐに息子の手を取り

「だから再発しないように頑張らないといけないの」と説明してくれたが、あらためて癌の恐ろしさを再確認した。この日摘出手術の決意をする。

 2箇所も転移のリスクがなくなるのなら、やはりしよう。

 もう息子を泣かせたくない。楽しい思い出でたくさんにしてあげたい。